第2章=界境-第6話「揺影」
◆第2章=界境-第6話「揺影」
あれから一年、大学二年の夏。
青木との件が薄れかけたその日も、特に変わったことはなかった。
図書館の空調は少し強くて、長く座っていると腕が冷える。
窓の外は明るく、時間の感覚が少しだけずれているように感じられた。
ぼくは席に座り、山下教授から渡された本を開いていた。
ページの紙質はざらついていて、指先に軽く引っかかる。
内容は難しく、正直なところ、すべてを理解しているわけではなかった。
それでも、読むことをやめる気にはならなかった。
どこかに、自分の感じているあの違和感に触れる部分がある気がしていたからだ。
向かいには杉山が座っている。
杉山も何か本を開いているが、読んでいるのかどうかは分からない。
ときどきページをめくる音だけが聞こえる。
静かな時間だった。
空調の風が机の下を通り抜け、足元が少し冷える。
周囲の席には数人が散らばっていて、それぞれが自分の世界に沈んでいる。
その静けさが、逆に耳の奥で響くようだった。
遠くで椅子がわずかに軋む音がして、それがやけに大きく聞こえた。
ページを一枚めくる。
文字を追う。
意味を拾い上げようとして、途中で止まる。
また最初から読む。
そんなことを繰り返しているうちに、ふと、視線が揺れた。
ほんの一瞬、紙の白さが波打ったように見えた。
理由は分からない。
音がしたわけでもない。
誰かが近づいた気配もなかった。
ただ、意識の端に何かが引っかかった。
あの日感じた気配がぼくを支配した。
ぼくはゆっくりと顔を上げた。
少し離れた席に、人が座っている。
それだけなら、何もおかしくない。
図書館なのだから、誰かが座っているのは当たり前だ。
なのに——
その姿を見た瞬間、思考が止まった。
見覚えがあった。
というより、見間違えるはずがなかった。
肩の力の抜けた座り方。
机に置かれた手の位置。
少しだけ前かがみになる姿勢。
そして、横顔。
守埜だった。
一瞬、何も理解できなかった。
時間が飛んだような感覚があった。
ありえない、という言葉すら浮かばない。
ただ、現実として目の前にあるものを、そのまま受け取るしかなかった。
胸の奥がゆっくりと沈むような、逆に浮き上がるような、どちらともつかない感覚があった。
耳の奥で、自分の鼓動だけが妙に大きく響いた。
守埜は、本を開いていた。
ページをめくるでもなく、ただそこに視線を落としている。
その姿は、高校のときと変わっていなかった。
静かで、少しだけぼんやりしていて、何を考えているのか分からない感じ。
ぼくの知っている守埜、そのままだった。
喉の奥が乾く。
視線を外そうとするが、外せない。
見続けてしまう。
間違いじゃないかと思う。
似ているだけの別人かもしれないと考える。
だが、その可能性を打ち消すように、守埜がわずかに顔を動かした。
目が合う。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
空調の風とは違う、もっと内側から立ち上がるような冷たさだった。
守埜は、少しだけ目を細めた。
そして——
ほんのわずかに、笑った。
高校のときと同じ、口元だけが動く笑い方だった。
ぼくの中で、何かが崩れる。
「……は?」
声が、思っていたよりも小さく出た。
杉山が顔を上げる気配があったが、そちらを見る余裕はなかった。
守埜は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その距離が、やけに遠く感じられた。
時間が止まっているようで、実際には流れている。
周囲のページをめくる音も、椅子が動く音も、すべてそのまま続いている。
なのに、この場所だけが切り離されているようだった。
空気の密度が変わったように感じられた。
呼吸が浅くなる。
ぼくは跳ねるように立ち上がった。
何をすればいいのか分からない。
声をかけるのか。
近づくのか。
それとも——
そのどれもが、現実味を失っていた。
守埜が、先に口を開いた。
「よう。お前も図書館?」
その一言が、あまりにも普通で、現実感を失わせた。
まるで、昨日の続きみたいに。
胸の奥に沈んでいた言葉が、急に浮かび上がる。
——行っとけば?
あのときの声が、重なる。
目の前の守埜と、記憶の中の守埜が、ぴったり重なる。
息がうまくできない。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。
ぼくは、やっとのことで言葉を出す。
「……なんで」
それ以上、続かなかった。
守埜は首をかしげる。
その仕草も、何も変わっていない。
「何が?」
軽い調子だった。
まるで、何も起きていないみたいに。
ぼくの中で、現実が音を立ててずれていく。
守埜が、ここにいる。
生きている。
話している。
それなのに——
でも、ぼくの知っている守埜は、あの日、あの場所で。
頭が追いつかない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
あのときの一言は、消えてはいないということ。
後悔も、疑問も、そのままの形で残っている。
目の前の守埜に対して、それをどう向ければいいのか、分からなかった。




