第2章=界境-第4話「既読」
◆第2章=界境-第4話「既読」
家に帰っても、胸のざわつきは消えなかった。
事故のことを知らせるチャットはまだ動いていたけれど、もう開く気になれなかった。
スマホを伏せたまま、机に突っ伏していた。
額に触れる木の冷たさだけが、やけに鮮明だった。
その冷たさが、胸の奥のざわつきを少しだけ落ち着かせるようで、でもすぐにまた戻ってきた。
しばらくして、画面が静かに光った。
通知ではなく、ただ時間が進んだだけの光だった。
その光が、部屋の薄暗さの中でゆっくりと揺れた。
ぼくの呼吸だけが、部屋の中で浮いていた。
呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。
ぼくはゆっくりと手を伸ばし、スマホを裏返した。
メッセージアプリを開くと、守埜とのトークが一番上にあった。
事故のことなんて知らないまま、そのままの位置に。
昨日のままの温度で、そこにあった。
その“昨日”が、急に遠いものに感じられた。
開くと、最後のやり取りが残っていた。
《また明日》
その下に、ぼくの《また明日》。
短くて、何の変哲もない言葉。
でも、今はその二文字が胸に刺さった。
胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいくのがわかった。
沈んでいくのに、底が見えなかった。
スクロールすると、少し前のやり取りが出てきた。
《今日、眠い》
《だな》
《なんかさ、授業の空気が重かったわ》
《お前いつも言ってね?》
《いや、今日は“いつもより”ってやつ》
《知らん》
《だよな》
その軽さが、今は痛かった。
守埜の声が、画面の向こうでまだ生きているみたいで、胸がきゅっと縮んだ。
ぼくの指先が、画面の上で少し震えた。
さらにスクロールすると、もっと前の会話があった。
《パン買えた》
《よかったじゃん》
《最後の一個だった。勝った気する》
《何と戦ってんだよ》
《世界?》
《は?》
《冗談だって》
守埜らしい、少しだけズレた冗談。
その軽さが、胸の奥を締めつけた。
ぼくの指が震えた。
笑えるはずのやり取りなのに、笑えなかった。
さらに遡ると、もっとどうでもいい会話が続いていた。
《昼、混みすぎ》
《いつもじゃね?》
《いや今日は“混みすぎの中の混みすぎ”》
《意味わからん》
《わかんなくていいやつ》
守埜の、あの曖昧な言い方。
語尾が少し抜ける癖。
その癖が、今は胸に刺さった。
今日の放課後、守埜はぼくに聞いた。
「お前なら、どうする?」
その言い方は、いつもより少しだけ言葉を探しているように聞こえた。
語尾が曖昧で、声がほんの少しだけ落ちていた。
その“少し”が、今は重かった。
ぼくは何も考えずに答えた。
「行っとけば?」
その瞬間の自分の声が、頭の奥で何度も再生された。
軽くて、浅くて、何も考えていない声。
その声が、今は自分のものじゃないみたいに聞こえた。
あのとき、ほんの一秒でも考えていれば。
別の言葉を選んでいれば。
そんな“もし”が、胸の奥で何度も膨らんでは潰れた。
そのやり取りは、メッセージには残っていない。
全部、口頭だった。
だからこそ、余計に消えなかった。
ぼくの頭の中で、何度も何度も繰り返された。
繰り返すたびに、胸が痛んだ。
メッセージアプリには、事故の前の守埜がそのまま残っていた。
ぼくに向けた短い言葉たちが、昨日のままの温度で並んでいた。
その温度が、今は遠く感じた。
触れようとすると、指先が冷たくなるような距離だった。
《また明日》
その言葉が、頭の奥で何度も反響した。
守埜は、明日が来ると思っていた。
ぼくも、来ると思っていた。
その“当たり前”が、急に脆く見えた。
ぼくは画面を閉じようとした。
でも、指が止まった。
閉じたら、本当に終わってしまう気がした。
消せばいいのかもしれない。
でも、消したら、守埜が本当にいなくなる気がした。
ぼくは画面を閉じずに、ただ見つめていた。
守埜のアイコンは、昨日と同じままだった。
無表情でもなく、笑っているわけでもなく、ただそこにある顔。
その顔が、急に遠く感じた。
ぼくはスマホを胸に押し当てた。
そのまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいくのを感じた。
沈んでいくのに、底が見えなかった。
呼吸が浅くなり、喉が少し痛くなった。
部屋の中は静かだった。
外では風の音がしていた。
カーテンが少し揺れていた。
その揺れ方が、妙にゆっくりに見えた。
時間が伸びているような感覚だった。
ぼくは目を閉じた。
守埜の声が、かすかに蘇った。
「お前なら、どうする?」
「……いや、別に深い意味とかじゃないんだけどさ」
「なんか、行っといたほうが“いい気がする日”ってあるじゃん」
守埜の、あの曖昧な言い方。
語尾が少しだけ抜ける癖。
その声が、ゆっくりと沈んでいく。
ぼくの返事も。
「行っとけば?」
その一言が、胸の奥に重く沈んだまま動かなかった。
あの一言が、守埜をあの場所に向かわせたのかもしれない。
そう思うたびに、胸が痛んだ。
痛むたびに、呼吸が浅くなった。
浅くなるたびに、胸の奥がさらに沈んだ。
ぼくはスマホを手に持ったまま、机に額をつけた。
画面の中の《また明日》が、ぼくを責めているように見えた。
外の風の音だけが、静かに続いていた。
声にならない慟哭が、風の音を飲み込んで、やけに遠くに感じた。




