第2章=界境-第3話「分岐」
◆第2章=界境-第3話「分岐」
その日は、朝から少しだけ空気が重かった。
曇っているわけでも、雨が降りそうなわけでもないのに、キャンパスの空気がいつもより静かに感じた。
歩くたびに、靴底が地面に触れる音がやけに大きく響いた。
ぼくは眠気をごまかしながら講義室の席に座り、配布された資料を開いた。
前の方では教授が何か説明していたが、頭に入ってくる感じが薄かった。
言葉が耳を通り抜けていくたびに、意識が少しだけ遅れてついてくるような感覚があった。
一コマ目が終わると、守埜が前を向いたまま言った。
「なあ、今日さ……ちょっと迷ってることがあって」
「ん?」
「いや、大したことじゃないんだけど」
守埜はそれ以上言わず、背もたれに体重を預けて軽く伸びをした。
その仕草はいつも通りだったが、どこか言いかけた言葉の残りが空気に漂っているように感じた。
ぼくも特に気にせず、次の講義の準備をした。
資料をめくる音だけが、やけに耳に残った。
昼休み、学食はいつも通り混んでいた。
守埜はトレーを持ったまま、空いている席を探して歩いている。
前にいた知り合いと軽く言葉を交わしながら、結局ぼくの向かいに座った。
「混みすぎだろ」
「いつもこんなもんだろ」
そんなやり取りをしながら、ぼくは定食を食べ、守埜は適当に選んだパンと飲み物を口にしていた。
周りのざわめきに紛れて、どうでもいい会話が続く。
守埜の声はいつもと同じで、昼休みの空気に自然に溶けていった。
講義がすべて終わり、夕方の空気が少しだけ涼しくなる。
建物の出口で、なんとなく立ち止まって流れをやり過ごしていると、守埜が隣に来た。
「今日、帰りどうする?」
「どうするって?」
「いや……ちょっと寄りたいとこあってさ。行くかどうか迷ってる」
守埜はスマホを軽くいじりながら、少しだけ考えるような顔をした。
画面に映っている内容までは見えなかったが、指先の動きがいつもよりゆっくりに見えた。
「お前なら、どうする?」
その言い方は、いつもの軽い調子だった。
深刻さなんてどこにもなかった。
ぼくは特に考えずに答えた。
「行っとけば? 気になるなら」
「……だよな」
守埜は笑った。
その笑いは、いつもと同じだった。
でも、ほんの一瞬だけ、目の奥が揺れたように見えた。
キャンパスを出ると、風が少し強くなっていた。
バス停に向かう流れと、駅に向かう流れがゆるく分かれる。
ぼくは駅のほうへ歩き、守埜は反対側の道へ向かった。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
それが、最後に聞いた守埜の声だった。
その声が風に混ざって、すぐに遠ざかっていった。
駅に着くころ、救急車のサイレンが遠くで鳴っていた。
ぼくは特に気にせず、改札を通った。
電車に揺られながら、窓の外の景色をぼんやり眺める。
流れていく建物も、人影も、どこか現実感が薄かった。
夕方の光が車窓に反射して、景色が二重に見えた。
グループチャットが騒がしくなった。
講義で同じになったやつらが作った、ゆるい繋がりのグループだった。
通知が何度も鳴る。
ぼくはスマホを開いた。
《守埜が事故に遭ったらしい》
《マジ?》
《どこで?》
《駅の近くの交差点》
《救急車来てたって》
ぼくは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
守埜が、事故?
今日、別れたばかりだ。
いつも通りの笑い方をしていた。
いつも通りの声だった。
《さっきの時間帯らしい》
《なんであの道通ったんだろ》
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
——お前ならどうする?
——行っとけば?
ぼくは、なんとなく答えただけだった。
深い意味なんてなかった。
いつも通りの、どうでもいい返事だった。
でも、守埜はそれを聞いて、あの道を選んだのかもしれない。
ぼくの言葉で。
「……そんなわけないだろ」
声に出してみても、胸のざわつきは消えなかった。
スマホの画面には、まだ通知が増え続けていた。
《意識あるのかな》
《やばいって》
《誰か見た?》
ぼくはスマホを伏せた。
手が少し震えていた。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと沈んでいく。
いつもと同じ景色なのに、どこか遠く感じた。
守埜は、ぼくの言葉をどう受け取ったんだろう。
本当に参考にしたのか、ただの偶然だったのか。
そんなこと、わかるはずもない。
でも、頭のどこかで、何度も同じ言葉が繰り返された。
——行っとけば?
あの一言が、守埜をあの場所に向かわせたのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
守埜の笑い声が耳の奥で響いた。
「また明日」
その言葉が、やけに遠く感じた。




