第2章=界境-第2話「日々」
◆第2章=界境-第2話「日々」
三年の初夏は、眠気がとれない季節だった。
午前中の教室はいつもより少し暑くて、黒板の文字がゆらゆらして見えた。
窓の外では体育の生徒が走っていて、風が吹くたびに砂埃がふわっと舞い上がる。
その揺れ方が、授業の単調さと混ざって、時間の輪郭を少しだけ曖昧にしていた。
守埜は、授業が終わるといつも椅子を後ろに引いて伸びをする。
その音が合図みたいに響いて、ぼくはだいたい現実に戻る。
守埜の伸び方はいつも同じで、肩が少しだけ上がって、息を吐く音が小さく漏れる。
それを見ると、午前中が終わったことを自然に受け入れられた。
二人で廊下に出る。
昼休みの教室は、パンの袋を開ける音と、誰かの笑い声で満ちていた。
そのざわめきの中を歩くと、空気が少しだけ軽くなる。
守埜はよく、前の席のやつとくだらない話をしている。
ぼくはそれを聞きながら弁当を食べる。
たまに守埜がこっちを向いて、どうでもいいことを言う。
「昨日のドラマ見た?」
「見てねえよ」
「だよな」
そんな会話が続く。
守埜の声はいつも一定で、感情の起伏があまりない。
でも、その平坦さが昼休みの空気に妙に馴染んでいた。
別の日は、守埜が別の友達と昼を食べていた。
ぼくはぼくで、隣の席のやつと宿題の話をしていた。
同じ空間にいながら、別々の時間を過ごしている感じが、なんとなく心地よかった。
互いに干渉しない距離感が、自然に保たれていた。
昼休みが終わると、またそれぞれの授業に戻る。
守埜は数学が苦手で、たまに後ろを振り返って「今どこ?」と聞いてくる。
ぼくは適当に指さす。
守埜は「サンキュ」と言って前を向く。
そのやり取りが、週に何度かあった。
同じやり取りなのに、毎回少しだけ違う間があって、それが妙に記憶に残った。
放課後、校庭の端を歩くと、部活の声が遠くから響いてくる。
野球部の掛け声、吹奏楽部のチューニング、テニス部のボールの音。
その全部が混ざって、春の夕方の匂いになっていた。
空気が少し冷えて、影が長く伸びる時間帯だった。
守埜は、帰り道でよくどうでもいいことを言う。
「今日さ、体育のとき転びそうになったんだよ」
「見てたわ」
「助けろよ」
「無理だろ」
「だよな」
そんなやり取りをしながら、駅まで歩く。
守埜の歩幅は一定で、ぼくより少しだけ速い。
その差を埋めるように歩くのが、いつのまにか癖になっていた。
途中で自販機の前を通ると、守埜が立ち止まる。
「喉乾いたな」
「買えば?」
「何にしよっかな」
ぼくは適当に指をさす。
守埜は「それにするか」と言ってボタンを押す。
缶が落ちる音がして、守埜は満足そうに開ける。
その一連の動作が、毎回ほとんど同じなのに、なぜか飽きなかった。
その日はそれで終わり。
ただの帰り道だった。
別の日は、ぼくが部活で遅くなり、守埜の姿はもうなかった。
エントランスに夕日が差し込んでいて、影が長く伸びていた。
一人で歩く帰り道は、少し静かだった。
守埜がいないだけで、同じ道が少し違って見えた。
さらに別の日、守埜は図書室でレポートを書いていた。
ぼくは友達とコンビニに寄って、アイスを買って帰った。
校舎の窓から見えた守埜は、イヤホンをつけて何かを書いていて、声をかけるタイミングを逃した。
そのまま帰り道に出ると、風が少し強くて、前髪が揺れた。
雨の日は、校舎の出口で立ち止まって、傘を開くタイミングを迷う。
風の強い日は、前髪を押さえながら歩く。
暑い日は、駅までの道がやけに長く感じる。
寒い日は、息が白くなるのを見て笑う。
そんな日々が、ただ続いていった。
特別なことなんて何もない。
守埜もぼくも、同じように、ただその日を過ごしているだけだった。
ある日の帰り際、守埜が言った。
「明日、雨らしいぞ」
「まじか」
「傘持ってこいよ」
「お前もな」
「わかってるよ」
守埜は笑って、改札に消えていった。
その背中を見送りながら、明日もまた、同じようにどうでもいい話をして、同じように歩いて帰るんだろうと思った。
そのときは、本当にそう思っていた。
気づけば、夏は静かに終わっていた。
あの帰り道のあと、日々はゆっくりと流れていった。
そして、気づいたときには大学の生活が始まっていた。




