第1章=浮ぶ影-第11話「間」
◆第1章=浮ぶ影-第11話「間」
研究室を出た瞬間、空気がわずかに軽くなったように感じた。
重さが抜けたというより、何かが“剥がれ落ちた”ような感覚だった。
だが、その正体を掴む前に、扉が静かに閉まる音が背中に落ちる。
廊下はいつも通りだった。
蛍光灯の白い光、遠くで誰かが話す声、窓の外の薄い午後。
すべてが変わらないはずなのに、足を踏み出すたびに、靴底が床に触れる感触だけがほんの少し遅れてついてくる。
「大丈夫か」
隣で杉山が言う。
その声はいつもと同じなのに、どこか遠くから届いているように聞こえた。
「……うん」
返事をした自分の声が、耳に届くまで一拍遅れる。
その遅れが、研究室で感じた“押し出される感覚”の残りかすのように思えた。
階段を降りる。
手すりに触れた指先の感触が、ほんの一瞬だけ二重になる。
冷たさと温度のない触覚が重なり、すぐに一つに戻る。
胸の奥に沈んだままの違和感は消えずに残っていた。
外に出ると、風が吹いていた。
木の影が地面に揺れている。
その揺れが、ほんのわずかに“ずれて”見えた。
影と影の輪郭が、重なりきらずに薄く二重になっている。
瞬きをすると元に戻る。
だが、戻ったというより“合わせられた”ような感覚があった。
「先行ってるぞ」
杉山が手を振って歩き出す。
その背中を見送りながら、ぼくは深く息を吸った。
空気はいつも通りのはずなのに、肺に入るまでの距離が少し長い。
スマホを取り出す。
画面は変わらない。
通知も、時間も、予定も、いつも通りだ。
だが、指でスクロールしたとき、画面の動きと指の動きが一瞬だけ噛み合わなかった。
ほんのわずかに、画面のほうが先に動いた。
その違和感を追いかけようとした瞬間、風が強く吹き、木の葉がざわめいた。
その音が、耳に届く前に胸の奥に触れた気がした。
ぼくはスマホをしまい、歩き出す。
キャンパスの道はいつも通りで、学生たちの声も、建物の影も、何も変わらない。
変わらないはずなのに、自分だけが“少し違う場所”を歩いているような感覚があった。
ベンチに座り、空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
その動きが、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
次の瞬間にはまた動き出す。
ぼくは目を閉じる。
まぶたの裏に、研究室の光景が薄く残っている。
教授の声、机の木の匂い、『多重世界概論』の表紙。
それらが、遠くで反響している。
——押し出された。
その言葉だけが、確かなものとして胸の奥に沈んでいる。
だが、それが何を意味するのかは分からない。
立ち上がる。
歩き出すと、足元の影がわずかに揺れた。
揺れたというより、“影のほうが先に動いた”ように見えた。
すぐに重なる。
何事もなかったように。
そのとき、ふと、風の流れの中に“気配”が混じった。
誰かが横切ったわけではない。
ただ、すれ違ったような、触れられたような、
懐かしい気配だけが、視界の端に薄く残った。
振り返る理由はなかった。
気のせいだと思った。
ぼくは歩き出す。
キャンパスのざわめきが、少しずつ体に馴染んでいく。
人の声、風の音、アスファルトの匂い——
それらがゆっくりと“日常”の形を取り戻していく。
まるで、世界のほうがぼくを元の位置へ押し戻しているようだった。
変わらない景色の中で、自分だけがずれていることに気づかないまま、ぼくはいつもの帰り道へ足を向けた。




