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第1章=浮ぶ影-第10話「溝」

◆第1章=浮ぶ影-第10話「溝」

山下教授の研究室の前に立ったとき、扉一枚を隔てた内側だけが、別の温度を持っているように感じられた。廊下の空気は変わらないはずなのに、その前に立つだけで、自分の位置がわずかにずれる。

ここまで来るあいだにも何度か感じていた違和感が、静かに輪郭を持ちはじめていた。

ぼくは無意識に呼吸を浅くする。胸の奥だけが、ゆっくり沈んでいくようだった。

逃げたいわけじゃない。

けれど、この扉を開けた瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がしていた。

理由は分からない。

ただ、まだ名前を持たない“ずれ”だけが、皮膚のすぐ内側で静かに脈打っていた。

ノックをする。間を置かずに「どうぞ」と返ってくる声は、講義のときと同じで、どこかこちらの思考を見越しているような響きを含んでいた。

扉を開けると、室内は想像していたよりも整っていて、壁一面の本棚と、窓際に置かれた低いソファーが目に入る。

机の上には紙の束と数冊の本が重ねられていたが、そのどれもが使い込まれているのに乱れていない。

紙とインクの匂いが薄く漂っている。

その匂いに混じって、古い木材の乾いた匂いがした。

見慣れた大学の建物の中にあるはずなのに、この部屋だけが少し古い時間に取り残されているように感じる。

窓から差し込む午後の光も、どこか色が浅かった。

「来ると思っていたよ」

そう言って、山下教授は椅子から立ち上がるでもなく、こちらを見た。

その視線は、ぼく一人ではなく、後ろに立つ杉山の方にも同じように向けられる。

見透かされている、という感覚とは少し違う。

もっと静かに、“最初から知っていた”ものを見る目だった。

「彼も一緒か」

杉山は軽く肩をすくめるだけだった。

「なんか面白そうなんで」とでも言いそうな顔をしているが、その目はさっきよりも少しだけ緊張しているように見えた。

ぼくの隣に立ちながら、杉山は無意識に周囲を観察している。

いつもの軽さを崩していないのに、空気の変化だけはちゃんと感じ取っているようだった。

「座りなさい」

促されて、ぼくと杉山はソファーに腰を下ろす。

クッションの沈み方がわずかに遅れて体に伝わる。

ここでも、同じだ。完全には重なっていない。

座った瞬間、自分の感覚だけが半歩遅れて沈み込む。体は先にそこへ触れているのに、“触れた実感”だけがあとから追いついてくる。

ぼくは指先を軽く握った。皮膚の感覚が、ほんの少し遠い。

教授は机の上から一冊の本を取り上げた。表紙には簡素な文字で、タイトルだけが印字されている。

『多重世界円環論』

差し出される。それを受け取ったとき、紙の重みが一瞬だけ二重になる。右手で受け取ったはずなのに、ほんの一瞬だけ“別の受け取り方”が重なった気がした。

違う角度。違う指の位置。違う感触。だが次の瞬間には消えている。

「私の考えを、形にしたものだ」

教授はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

「ただし、正確ではない」

その一言が、妙に引っかかる。

「隣接しているわけではない。ただ、そう呼ぶしかない」

その説明は、説明になっていないはずなのに、なぜか納得に近い感覚を残した。言葉が届く前に、意味だけが先に触れてくるような、不安定な理解だった。

ぼくは本を膝の上に置いたまま、顔を上げる。

「……この前の講義で言っていたこと、詳しく聞かせてください」

自分の声が、ほんのわずかに遅れて耳に届く。声を出した“あと”に、自分が喋ったことを認識する。その順序の乱れが、胸の奥を静かにざわつかせた。

教授は頷き、視線を少しだけ横に逸らした。

「世界は一つではない」

それは講義で聞いた言葉と同じだったが、この部屋で聞くと重さが違った。講義室では理論だったものが、ここでは現実の輪郭を持ち始めている。

「正確には、世界はn個存在している。nは有限ではない。無限にある」

教授は指先で机を軽く叩いた。乾いた音が小さく響く。その音が、わずかに遅れて耳の奥へ沈んでくる。

「それぞれが一本の線だ。分岐しているわけではない。最初から別々に存在している」

言葉がゆっくりと積み重なっていく。

理解しているはずなのに、その理解がどこか自分の外側で進んでいるようだった。ぼくは説明を聞いているのではなく、もともと知っていたことを思い出しかけている。そんな奇妙な感覚だけが残る。

「人間は、その線の上を移動しているわけではない」

そこで一度言葉が切れる。

「——トレースしている」

杉山が小さく息を呑む気配がした。

教授は続ける。

「レコードの針のようなものだ。溝はすでに刻まれている。針はそれをなぞるだけだ。スピーカーが音を出すように、そのトレースの結果として意識が生じる」

その比喩は、理解できるはずだった。だが同時に、どこか現実から外れている。

いや、外れているのは世界ではなく、ぼくのほうなのかもしれなかった。

「つまり——」

言いかけて、言葉が止まる。

ぼくの中で、何かが繋がりかけていた。以前から胸の奥に刺さっていた小さな棘が、ゆっくりと抜けかけている。

「針」

それが正体なのか。

自分が動いているのではない。

選んでいるのでもない。

ただ、なぞっている。

では——

「その針が、別の溝に——」

言葉にしようとした瞬間、視界がわずかに歪む。

教授の顔が、ほんの一瞬だけ二重になる。

音が遠ざかる。

部屋の輪郭が、水面に映った景色みたいにゆっくり揺れる。

何かが合いかけていた。あと少しで繋がるはずだった。

その手前で、意識の位置がずれる。

押される。

内側から、外へ。外側から内へ。

胸の奥で、何かが静かに滑った。

骨でも肉でもない。“ぼく”そのものの位置だけが、今いる場所から押し出されていく。

言葉が切れる。

感覚だけが残る。

——玉突き。

さっきよりも、はっきりと。

さっきよりも、深く。

自分の位置が、今いる場所からわずかに外れる。

戻る感覚が、ない。

ぼくは息を止めた。

その瞬間、研究室の空気がほんのわずかに“変わった気がした”。

本棚の位置も、窓から入る光も、教授の座る角度も、全部同じはずなのに、何かだけが噛み合っていない。まるで、ぴったり重なっていた二枚の透明な写真が、ほんの数ミリだけずれたようだった。

そして理解する。

これは一度きりではない。

ぼくは、また押し出された。


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