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第1章=浮ぶ影-第9話「記憶の手触」

◆第1章=浮ぶ影-第9話「記憶の手触」

木曜日、目が覚めた瞬間、最初に浮かんだのは違和感ではなかった。

もっとはっきりした、確定に近い感覚だった。

——どこからかが違う。

それは漠然とした不安ではなく、切れ目のようなものだった。連続しているはずの時間の中に、一本だけ異なる繋ぎ目がある。その位置が、分かりかけている。

体を起こし、しばらく動かずにいた。思い出そうとしなくても、昨日の出来事はそのまま浮かんでくる。講義、玉突き、駅前の店、青木との通話。そこまでは、はっきりしている。

問題は、その“手前”だった。

スマホを手に取り、ゆっくりとロックを解除する。何から確認すべきかは、すでに決まっているような気がしていた。

まず、メッセージの履歴を開く。

青木とのやり取りは、やはり三日前で止まっている。一昨日起きたはずの会話は存在しない。それはもう確認済みだった。だが、今回はそこでは終わらない。

さらに遡る。

一週間前。二週間前。

やり取りは続いている。文章は自然だ。文体も癖も、確かに“自分のもの”だ。

それなのに、奇妙な違和感がある。

読んでいるとき、そこに“記憶の手触り”がない。

自分が書いたはずなのに、自分の思考の延長としてつながらない。

知っている文章なのに、「あのときの自分」が浮かんでこない。

画面を閉じる。

次に写真フォルダを開く。日付順に並んだ画像を、ゆっくりと遡っていく。

昨日。問題ない。

一昨日。問題ない。

ここまでは確かに、自分の記憶と一致している。

だがその先で、流れが少しずつ変わる。

キャンパスの写真。教室の写真。食堂の写真。

見覚えはある。場所も、構図も正しい。光の角度すら自然だ。

その中に、自分がいる。

笑っている。誰かと並んでいる。杉山の隣に立っている。

——それは理解できる光景だった。

だが同時に、どうしても引っかかる。

その瞬間を「生きた」という感覚がない。

写真としては正しいのに、記憶としては掴みどころがない。

そこに居たはずなのに、あとから置かれたみたいに感じる。

ぼくはそこで、初めて思う。なぜ、一致しているものと、一致していないものがあるんだろう。

すべてが壊れているわけではない。

すべてが正しいわけでもない。

混ざっている。

まるで、いくつかの“近い世界”が、同じ一人の履歴として重なっているみたいに。

次にノートを開く。

講義のノート。ページをめくる。

字は、自分のものだ。筆跡も癖も一致している。

だが、内容を読んでいるときの感覚がやはりおかしい。

理解はできる。論理もつながる。

それなのに、「書いた」という感覚だけが抜け落ちている。

数ページめくったところで、手が止まる。

そこには山下教授の講義が書かれていた。

線。選択。位置。

そのページだけ、異様に鮮明だ。

思い出せる。

黒板の線。教室の空気。沈黙。

そして——玉突き。

そこだけは違う。

その瞬間だけは、確かに“自分の連続”として感じられる。

それ以前と、それ以後が、きれいに分断されている。

ぼくはゆっくりと息を吐く。

——あの日だ。

あの講義の瞬間だけは、確かに“つながっている”。

だが、それ以外は違う。

一致しているはずの記録が、自分の記憶として定着しないものがある。

逆に、明らかに記憶と一致しているものもある。

なのに、その境界がどこにあるのか分からない。

机に手をつく。

指先の感覚は確かだ。

だが、その確かさが逆に不安定だった。

——どこまでが自分なんだ。

そう思う。

場所は同じはずなのに、連続だけがずれている。

自分が、自分の時間の上に完全には乗っていない。

その事実が、遅れて重くのしかかってくる。

どうする。

問いは自然に浮かんだ。

このまま放置するのか。

慣れるのか。

それとも——

答えは、すでに一つしかなかった。

あの講義。

あの言葉。

「世界はn個存在している」

それを口にした人物は、山下教授だ。

そしてあの場で、“このずれそのもの”について語っていたのも、彼だけだった。

偶然ではない。

少なくとも、この異常を“説明できる場所”にいるのはあの人だ。

ぼくは立ち上がった。

迷いはなかった。

理由は説明できない。だが、確信だけがある。

——あの人なら、この違和感の正体に触れている。

あるいは、最初からそれを前提にしていたのかもしれない。

スマホをポケットに入れ、部屋を出る。

廊下を歩き出した瞬間、視界の端がわずかに揺れた。

ほんの一瞬だけ、何かが重なる。

だがすぐに戻る。

もう驚かない。

これは崩壊ではない。

説明できない“ずれ”が、積み重なっているだけだ。

ぼくは歩き続ける。

向かう先は一つしかない。

山下教授の研究室。


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