第1章=浮ぶ影-第8話「欠片」
◆第1章=浮ぶ影-第8話「欠片」
約束は、確かにあった。
その日の講義が始まる前、教室の外の廊下で、窓際に寄りかかっていたときのことだ。手持ち無沙汰にスマホを開いた瞬間、青木優からメッセージが届いた。
『明日夕方から空いてる?』
短い一文だったが、その軽さがかえって自然で、何の疑いもなく受け取れた。ぼくは少しだけ考えてから、すぐに『空いてる』と返す。既読がつき、ほとんど間を置かずに次のメッセージが届いた。
『駅前の店行かない? あの喫茶店』
あの店、という言い方で通じる場所だった。窓際の席があって、夕方は少しだけ光が傾いて入ってくる、あの店だ。
『いいよ』
そう返すと、青木から軽く笑っているスタンプが送られてきた。
『じゃあ五時な』
そこまで確認して、ぼくはスマホをポケットにしまった。何の違和感もなかったし、むしろ一日の流れが自然に決まったような感覚すらあった。
そして今日講義が始まり、あの「玉突き」を感じた。
教室の空気が沈み、意識の位置がわずかに押し出される、あの感覚。黒板の線が二重に見え、世界の受け取り方だけが一段ずれるような、あの瞬間。
それが収まったあとも、違和感は完全には消えなかったが、時間とともに薄れていった。
講義が終わり、廊下に出る。誰かの話し声、足音、窓の外の風。すべてがいつも通りに戻っていた。ぼくは一度だけ息を吐き、杉山と並んで歩き出す。
そのまま昼食をとり、図書館に寄った。約束までの時間を潰すためだったが、読んでいる本の内容はほとんど頭に入らなかった。あの感覚の残滓のようなものが、意識の底に薄く張り付いていた。
四時半を過ぎた頃、席を立ち、駅へ向かう。
この時点では、もうほとんど元に戻っているように感じていた。二限の講義での“玉突き”も、今となっては錯覚だったのではないかと思えるほどだった。ただ、完全に消えたわけではなく、言葉にできないわずかな違和感だけが残っている。
だが、それもいつものことだった。
だから今回も、ただそれだけで終わるはずだった。
駅前の店に入ると、時間はちょうど約束の十五分前だった。少し早かったかもしれないと思いながら店内を見渡すと、窓際の席が一つだけ空いている。
そこに座り、水を置いてもらう。外の通りを眺めながら、何気なくスマホを取り出し、メッセージを開いた。
その瞬間、指が止まる。
履歴が、ない。
一度スクロールする。さらに遡る。
だが、あるはずの会話が見当たらない。最後のやり取りは三日前のもので、講義についてのどうでもいい雑談が並んでいるだけだった。
その下に続くはずの、
『明日夕方空いてる?』
『空いてる』
『駅前の店行かない?』
『いいよ』
『じゃ五時な』
その一連の流れが、どこにも存在していない。
一度画面を閉じ、もう一度開く。同じだった。
消えている、というよりも——最初から存在していなかったような、そんな空白の仕方だった。
喉の奥が、ゆっくりと乾いていく。
ぼくは通話ボタンを押した。
数回のコールのあと、青木が出る。
「もしもし?」
「……今どこ?」
できるだけ平静を装って聞くと、青木はためらいもなく答えた。
「どこって、家だけど」
その即答が、逆に現実味を帯びている。
「今から来るんじゃなかったのか?」
自分の声が、わずかに浮いているのが分かる。
「……何に?」
青木が聞き返す。
「店。駅前の」
短い沈黙が落ちる。その沈黙の長さが、不自然に感じられた。
「いや、そんな話してないけど」
その言い方は、疑いもなく自然だった。否定しているというより、最初から前提が存在していないような口調だった。
「昨日決めただろ。講義の前に」
反射的にそう言う。
「いや、俺昨日お前と話してないぞ」
一拍遅れて、その言葉が届く。
「……は?」
「昨日、休講だったじゃん」
その一言で、足元の感覚がわずかにずれる。
思考が止まる。
休講。
そんなはずはない。
教室にいた。廊下に出た。メッセージをやり取りした。
「……いや、あっただろ」
「ないって。俺、だから昨日バイト入れてたし」
青木の声は変わらない。いつも通りで、そこに嘘や冗談の気配は一切なかった。
言葉が続かない。
頭の中で、さっきの光景をなぞる。
教室。廊下。メッセージ。
全部、確かにある。
あるのに——
「じゃあな、今日もこれからバイトだし」
そう言って、通話は切れた。
耳元に無音が広がる。
スマホの画面を見つめる。履歴は、何も変わっていない。三日前で止まったままだ。
そのとき、ふと気づく。
さっきの“玉突き”。
あの瞬間に、何かが入れ替わったのではないか。
講義があった世界と、なかった世界。
約束をした世界と、していない世界。
ぼくは、そのどちらかから押し出された。
だから今、整合性が合わない。
胸の奥が、静かに冷えていく。
窓の外を見ると、人の流れはいつも通りに動いているはずなのに、その動きがほんのわずかに遅れて重なって見えた。一人分だけ、位置がずれているような違和感。
瞬きをすると、それは消える。
だが、もう分かっていた。
これは錯覚ではない。
グラスに手を伸ばす。触れた瞬間、ガラスの感触がわずかに二重になる。
一つは今の自分の触覚。
もう一つは、ほんのわずかに遅れて重なる、別の触れ方。
息が止まる。
——まだ、続いている。
さっきの玉突きが、終わっていない。
あるいは、今もどこかで連続している。
ぼくはゆっくりと手を引いた。
約束は、確かにあった。
だがそれは、ここにはない。
この世界では、最初から存在していない。
それでも、自分の中では消えていない。
そのズレだけが、はっきりと残っている。
そして気づく。
この現象は、時間が経って消えるものではない。
ぼくの位置を、別の連なりへと滑らせている。
その理解が、静かに確信へと変わっていく。




