第1章=浮ぶ影-第7話「切替痕」
◆第1章=浮ぶ影-第7話「切替痕」
朝、目が覚めたときから、どこか引っかかる感覚があった。
昨日ぼくは確かに青木と約束をしていたはずだ。
そんな思いに支配されていた。
それだからか、ただいつも通りのはずの一日が、わずかに"先回りされている"ように感じた。
スマホを手に取り、習慣のようにカレンダーを開く。
そこに表示されている予定には、講義やレポートについての記録が自分の記憶を補うように並んでいるはずだった。
レポート提出期限。あと一日。そう認識していた。
一昨日(月曜日)も、杉山とその話をしていたはずだ。
「締め切り、今度の金曜日だよな」と。確かに言った。言った記憶がある。
カレンダーにもそう書いた。
だが、画面に表示されている日付は違っていた。
「締切:来週金曜日」
一瞬、意味が追いつかない。
指で画面をスクロールする。設定を疑う。
更新履歴を開く。するとそこには、大学からの正式な通知が残っていた。
件名は「提出期限のお知らせ」。
日付も、学部の印も、教授の名前も、すべて揃っている。
通知日は3週間前の日付けで送信されている。
読めば読むほど、正しい。そのはずなのに、胸の奥だけが冷えていく。
そんなはずはない、と思う。
確かにぼくは、"明後日提出"だ。そういう前提で動いていた。
杉山にもそう言ったし、杉山も「ギリギリだな」と笑っていた。
その会話の細部まで思い出せる。
机の位置、教室の光の色、杉山がペンを回していた癖まで、妙に鮮明だ。
だが、通知はそれを否定している。
どちらかが間違っているはずだ。
普通なら、そう考える。それなのに、今回は違った。
"間違っている"という感覚が、自分の側だけに寄っている。
まるで、世界のほうが静かに整合性を取り直したような気配がある。
教室に向かう途中、杉山とすれ違う。いつも通りの顔だ。
「なあ、レポート締切延びた?」
何気なく杉山に話しかける。本当に何気ない声。
「……延びた?」すっとんきょうに杉山が返事を返す。
「メール来てただろ。来週に変更ってやつ」
当然のようにぼくは言う。確認するまでもない事実だと思った。
ぼくは一瞬、固まった。
「一昨日さ、今週末って言ってなかったか?」
そう聞くと、杉山は軽く首をかしげる。
「何の話?」
その一言で、何かがずれる。
記憶の中の会話は、確かに存在している。月曜日、確かに焦っていた。杉山と並んで、締切について話した。そのときの空気も、焦りも、間違いなく"あった"。
なのに、杉山の中にはその履歴がない。
いや、ないどころか、"最初からなかったもの"として処理されている。
どちらかが嘘をついているわけではない。
その事実だけが、異様だった。
教室に入ると、空気はいつも通りだった。黒板も、机の配置も、誰の顔も変わらない。だが、ぼくの中だけが、わずかに浮いている。
周囲の会話の中に、ひとつだけ噛み合わない歯車があるような感覚。
授業中も、頭の片隅にその違和感が残り続けていた。
レポート締切は延びた。助かった。そのはずなのに、安心はない。
代わりにあるのは、"記憶のほうが修正されていない"という感覚だ。
昼休み、杉山と食堂へ向かう途中だった。
「そういえばさ」
杉山が何気なく言った。
「知ってる?」「ショッピングセンターの名前。もともと二本あったんだって、松」
「それがさ一本、いつだったかの雷でやられちゃったんだって。それで“一本松”になったらしいよ」
雷なんて知らない、記憶にない。ぼくは足を止めた。
二本松。
その名前が、胸の奥で静かに反響した。
あの看板のことを、ぼくはまだ覚えている。電車の窓から見えた、あの「一本松ショッピングセンター」の文字。検索すれば確かにその表記で揃っていて、ぼくは自分の覚え違いだと思い込もうとした。
でも——
やっぱり、間違っていたのはぼくじゃなかった。
その確信が、静かに、しかし確実に胸の奥に沈んでいった。
「どうした?」
杉山がこちらを見る。
「……いや、なんでもない」
歩き出しながら、ぼくは胸の奥の感触を確かめた。
レポートの締切も、あの看板も、ぼくの記憶は正しかった。
世界のほうが、静かに"再配置"されている。
そしてその再配置に、自分だけが遅れている——いや、違う。
遅れているのではない。
ぼくだけが、修正される前の世界を覚えている。
その感覚だけが、はっきりと胸の中に沈んでいった。
昼食をとりながら、ぼくはもう一度聞いた。
「本当に、最初から来週だったのか?」
杉山は笑いながら答える。
「何回聞くんだよ。お前、一昨日も同じこと言ってたぞ」
「一昨日も」
その言葉が、少しだけ引っかかる。
昨日も自分は、確かに焦っていた。その焦りは本物だったはずだ。だがその"昨日"の焦り自体が、今の現実とずれている可能性がある。どちらが先なのか分からない。
ただ一つだけ分かるのは、世界は一貫しているということだ。
そして、自分のほうだけが、その一貫性から少し外れているということだ。
その日の午後、ぼくはスマホの通知履歴を何度も見返した。
メールは確かに存在する。大学からの正式な連絡。
だが、その文面を読んでいるときだけ、妙な感覚があった。
"これは最初から知っていたはずだ"という感覚と、
"昨日まで確かに違ったはずだ"という感覚が、同時に成立している。
矛盾しているのに、どちらも消えない。
そのまま画面を閉じると、胸の奥にわずかな違和感が残った。
軽い、しかし消えない。
まるで、どこかの世界線だけが静かに切り替わったあと、その"切替痕"だけがこちら側に残っているような。
ぼくは気づく。
ただ、世界のほうが静かに"再配置"されている。
そしてその再配置に、自分だけが遅れているのではない。
ぼくだけが、元の世界を覚えている。
その感覚だけが、はっきりと胸の中に沈んでいった。




