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第1章=浮ぶ影-第6話「隣接」

◆ 第1章=浮ぶ影-第6話「隣接」

その仮説に気づいてから、ぼくはある程度の確信を持っていた。

あの“ずれ”には条件がある。

ただの偶然でも、脳の誤作動でもない。しかも、完全なランダムでもない。

杉山の存在。そして、山下教授の講義。

この二つが揃ったとき、必ずと言っていいほど「ずれ」が発生する。

そしてもう一つ。

それは意識が、特定の一点に“自然に吸い寄せられている状態”だった。

つまり、無意識のフォーカス。集中しようとして集中するのではなく、気づいたらそこに落ちている注意。

ぼくはその条件を、何度もノートに書き直した。

杉山。山下。講義。線。自己同一性。集中(無意識)

どれも単独では何も起きない。だが、特定の組み合わせで“押し出される”。

そこで次の講義では、意図的に試してみることにした。

集中する。無意識的にフォーカスを合わせる。ようにする。

ずれを再現するために、あえてそこに意識を固定する。

講義中、ぼくは黒板の線を見つめ続けた。

教授の声も、杉山の背中も、すべてを観察対象として固定した。

視線の位置も、呼吸の深さも、できる限り前回と同じにした。

けれど——何も起こらなかった。

起きない、というより、起こりようがないという手応えだけがあった。

世界が、こちらの意図を先回りして“固まっている”ような感覚。

触れようとした瞬間に、表面だけがすっと逃げていくような。

どこにも引っかからない。

どこにも沈まない。

ただ静かに、講義が終わった。

違和感はあった。だが、それは以前のような「ずれ」ではない。

むしろ逆に、世界が過剰に安定しているような感覚だった。

揺れない。動かない。

こちらの意識がどれだけ伸びても、何も掴めない。

終わったあと、ため息をついて、ぼくはノートを閉じた。

その瞬間、少しだけ理解する。

——これは意識的なフォーカスでは起きない。

条件が違う。

“自分が見ようとしている状態”ではダメなのだ。

ずれは、いつも「見ていることに気づいていない瞬間」に起きていた。

その事実が、ぼんやりと胸の奥に沈んでいく。

そして、夏休み前最後の講義の日。その日はいつもと変わらない光景だった。

教室の空気も、窓から入る光も、杉山の位置も、すべて同じ配置に見えた。

だが、どこかで“終わる”気配だけがあった。

講義の最後、教授は黒板の線の隣にもう一本、もう一本とゆっくり書きながら言った。

「私の仮説は、世界はn個、無限に存在しているということだ」

その瞬間だった。ぼくの意識は、何の前触れもなく一点に落ちた。

無意識だった。考えようとしたわけでも、構えたわけでもない。

ただ、その言葉だけが、胸の奥に“直接落ちた”。

「世界はn個存在している。n=無限。」

その意味を理解する前に、何かが起きた。

音が消えたわけではない。視界が揺れたわけでもない。

ただ、ぼくの「位置」が一段階だけ外れた。

押し出された。今回は、はっきりと分かった。

今までのような曖昧な違和感ではない。

“明確な移動”だった。

そしてその瞬間、今までのすべてが書き換わる。

デジャヴのようなもの。逆向きの既視感。講義中の揺れ。杉山の背中。ノートに現れた線。

それらは「世界がずれていた」のではない。

もっと正確には——ぼくが押し出されただけだ。

その認識が、一気に接続される。

今まではただの違和感だったものが、はっきりと差異として見える。

同じ講義。同じ教室。同じ黒板。だが、どこかが違う。

いや、“違っていたのではなく、隣り合って同時に存在していた”。

その理解が、頭ではなく“位置の感覚”として入ってくる。

胸の奥が静かに冷えていく。

そして初めて気づく。

自分が見ていたのは、ひとつの世界ではなかった。

最初から、重なった複数の世界の“ずれた位置から”だった。

そして今、その断面の差が、はっきりと認識可能になってしまった。

杉山がこちらを見る。

その瞬間、ぼくは確信する。

この“気づき”自体が、また次の玉突きを起こす。

世界は終わらない。もう戻れない。

ただ、ずれていく数が増えるだけだ。


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