第二話 一年前のお茶会
「ソフィー、お前は歩くのが早すぎる」
振り返ると、お兄様が少し呆れた顔で笑っていた。
「遅いのは、お兄様です」
「ここは王城だぞ。侯爵家の令嬢が小走りとはいただけない」
「走っておりません」
「あと三歩で走る」
「その三歩が違います」
お兄様は肩をすくめた。
「ほら、深呼吸」
「またですか」
「外交は最初の一呼吸で決まる」
「お兄様は何でも外交につなげますね」
「仕事だからな」
そう言って笑うお兄様は、誰より穏やかだった。
侯爵家の嫡男。
王太子筆頭側近。
外交の天才。
そう呼ばれていても、私にとっては昔から変わらないお兄様だった。
困っている人を見ると放っておけない。
花壇の花が枯れれば庭師より先に水をやり、迷子の子どもがいれば膝をついて話しかける。
だから私は、お兄様が怒ったところをほとんど見たことがない。
「今日は気を張らなくていい」
お兄様が歩きながら言った。
「お茶会ですもの」
「そうだ。王太子妃候補のお披露目のようなものだ」
「……その言い方は嫌です」
「なら何と言えばいい」
「普通のお茶会」
お兄様は吹き出した。
「王城で普通のお茶会があるなら、一度見てみたい」
私も少しだけ笑った。
一年前の私は、こんなふうに笑えていた。
◇
王城の庭園には、春の花が咲き始めていた。
白い石造りの東屋。
銀のティーセット。
色とりどりのドレスをまとった令嬢たち。
誰もが穏やかな笑顔を浮かべている。
けれど、その視線だけは穏やかではない。
互いを静かに観察している。
「ソフィー様」
振り向くと、栗色の髪の令嬢が優雅に一礼した。
「オデット様」
ボデッチェ伯爵令嬢。
今日のお茶会でも有力な王太子妃候補の一人だった。
「お会いできて嬉しいですわ」
「わたくしも」
当たり障りのない挨拶。
笑顔も完璧。
けれど、どこか疲れて見えた。
「緊張なさっていますか」
思わず尋ねると、オデットは少しだけ目を丸くした。
「……少しだけ」
「わたくしも」
二人で小さく笑う。
「王太子殿下のおなりです」
近衛騎士の声が響く。
庭園の空気が一瞬で変わった。
王太子ジュール殿下。
柔らかな金髪を風になびかせながら、ゆっくりと歩いてくる。
その少し後ろにはお兄様の姿もあった。
「皆、楽にしてくれ」
王太子殿下は穏やかに微笑んだ。
堅苦しさを嫌う人だった。
だから令嬢たちも少しだけ肩の力を抜く。
「ソフィー」
お兄様が近づいてきた。
「困っていないか」
「子どもじゃありません」
「いや、お前はすぐ迷子になる」
「なりません」
「七歳の時――」
「その話は禁止です」
お兄様が楽しそうに笑う。
王太子殿下まで笑いをこらえていた。
「ルイ、そのくらいにしてやれ」
「申し訳ありません」
「殿下まで笑わないでくださいまし」
「いや、悪い」
王太子殿下は珍しく声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、この人がお兄様を裏切る未来など、誰にも想像できなかっただろう。
お茶会は和やかに進んだ。
王城で採れた蜂蜜。
侯爵領の果実を使った焼き菓子。
今年咲いた白百合の話。
各地の祭りの話。
お兄様は自然に会話へ入り、誰も取り残さない。
外交とは、こういうことなのだろう。
「ソフィー」
王太子殿下が声を掛けた。
「剣の稽古は続けているそうだな」
「はい」
「ルイから聞いた」
私はお兄様を見た。
お兄様は紅茶を飲みながら視線を逸らす。
「また余計なことを」
「隠すことでもない」
「令嬢です」
「令嬢だから身を守る術が必要だ」
「お兄様は心配しすぎです」
「心配するのが兄というものだ」
王太子殿下が穏やかに頷いた。
「ルイは昔からそうだった」
「殿下まで」
三人で笑う。
その時間が、ずっと続くものだと思っていた。
◇
少し離れた回廊。
一人の男が庭園を見下ろしていた。
年齢は国王より少し年上。
鋭い目だけが笑っていない。
パレーラ大公。
その後ろへ、一人の男が近づく。
「準備は整いました」
小さな声だった。
大公は庭園のルイ・フォンデラを見つめたまま答える。
「フォンデラは邪魔だ」
「はい」
「王太子の隣にいる限り、計画は進まぬ」
「承知しております」
大公は静かに笑った。
「ならば、先に駒を動かそう」
その視線の先では、何も知らないルイが、いつものように笑っていた。
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