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第一話 王太子を平手打ちしました

新連載です。


処刑された兄の遺言を胸に、復讐したいのに復讐できない令嬢のお話です。

バシッ!

乾いた音が、謁見の間に響いた。

気づいた時には、私は王太子殿下の頬を全力で打っていた。


「ソフィー!」

お父様の声が飛んでくる。

近衛騎士たちが一斉に動いた。

けれど、王太子殿下は片手を上げて騎士たちを止めた。

頬を押さえることもなく、ただ私を見ている。

その顔が、許せなかった。

何も言わず、何も言い訳せず、昔と変わらない静かな目で私を見る。


「どうしてですか」

自分でも驚くほど、声は震えていなかった。

「なぜ、わたくしなのですか」

王太子殿下は口を真一文字に結んだまま答えない。

玉座に座る国王陛下も、私たちを黙って見ていた。

一年前と同じだ。

この方たちは、いつも大切なことを何も話さない。

そして、決まったことだけを私たちに受け入れさせる。


「王命だからですか」

「ソフィー、控えなさい」

お父様が私の腕をつかむ。


一年ぶりに王都へ戻り、今日、外政大臣に復職したばかりのお父様の手だった。

少し痩せた指。

以前より白くなった髪。

それでもお父様は、背筋を伸ばして国王陛下の前に立っている。


私はその手を振り払った。

「お父様は、それでよろしいのですか」

「今、ここはその話をする場ではない」

「では、どこで話せばよいのですか、侯爵領へ戻ってからですか。それとも、すべてが決まったあとですか」

「ソフィー」


「お兄様の時と同じように」


お父様の顔から、色が消えた。

謁見の間が静まり返る。

口にしてはいけないことだったのかもしれない。

けれど、私は一年間、誰も口にしないその名前をずっと胸の中で呼び続けていた。


ルイお兄様。

王太子殿下の親友。

王太子筆頭側近。

そして、王家に背いた罪で処刑された、フォンデラ侯爵家の嫡男。


「殿下は、お兄様を処刑なさったのでしょう」

「ソフィー」

今度は王太子殿下が私の名を呼んだ。

その声まで、以前と変わらない。

お兄様と三人でラベンダーの香る庭を歩いた時も。

お兄様が私の剣の稽古を笑って見ていた時も。

殿下は、同じ声で私を呼んでいた。

胸の奥で、何かが切れた。


「わたくしに、王太子妃になれと?罪人の妹なのに?」


私は笑った。ひどく震えながら。


「お兄様を殺した方の妃になれと、おっしゃるのでしょうか」


国王陛下がゆっくりと立ち上がった。

「ソフィー。話を聞きなさい」

「もう一年も待ちました」


話ならずっと待っていた。

領地へ戻る馬車の中でも。

お兄様の部屋を閉じた日も。

お父様が夜中に一人で書斎へ入っていく背中を見た時も。

けれど、誰も何も話さなかった。


それなのに、王都へ呼び戻されて告げられたのが、

王太子妃となれという王命だった。

「わたくしは嫌です」

王太子殿下の瞳が僅かに揺れた。

「ソフィー、私の話を」

「聞きたくありません」

「ルイのことだ」

その名を、殿下の口から聞きたくなかった。

「お兄様の名前を呼ばないで!」


魔力が膨れ上がっていく。

床に描かれた王家の紋章が、白く光る。

誰かが息をのんだ。

「ソフィー、やめるのだ!」

お父様が手を伸ばす。

王太子殿下も、こちらへ踏み出した。


もう遅いのよ。

ここから消えたい。

この人たちの前から。

王太子妃という言葉から。

お兄様を殺した王城から。

お兄様にお会いしたいの。

その一心で、私は転移魔法を放った。

白い光が視界を埋め尽くす。

足元が消えた。

次の瞬間、私は冷たい石床の上に倒れ込んでいた。


「……痛っ」

膝を打ったらしい。

絹のドレスが、ひどく場違いだった。

顔を上げる。

どこに転移を。

薄暗い空間に、石棺が静かに並んでいる。

壁際の燭台に小さな青い炎。

ここは、霊廟?

侯爵領フォンデラ家の霊廟ではない。


王城内では転移魔法を使ってはならない。

まして霊廟への転移など、誰も想定していないだろう。

無意識だった。

私は、とうとう王太子を平手打ちし、

王命を拒み、

王城の禁を破った。


フォンデラ侯爵家は、明日にはなくなっているかもしれない。

「……本当に、お兄様のせいです」


答えはない。

私は立ち上がり、奥へ進んだ。

石棺には代々の王族の名前が刻まれている。

王家の霊廟だ。


なぜこんな場所に転移したの。

まさか。

時代を感じる石棺の間を抜けると、まだ風化していない石棺が二つ。


王族ではない二人がなぜここに。


エレーヌ・フォンデラ

私を産んだお母様、私が幼い頃に儚くなられた。

お母様の石棺の上には、白百合が飾られていた。

水を替えたばかりなのか、花はまだ瑞々しい。

誰、誰が供えたのだろう。

考えるのをやめた。


その隣。

枯れたラベンダーがまだ香りを放っている。

そして石には

ルイ・フォンデラ。

あぁ、お兄様、ここに。


最期の日お兄様には会えなかった。

葬儀もなかった。

お兄様の亡骸を領地の霊廟へお連れする事もできなかった。

お父様と私はそのまま侯爵領へ戻された。

だから、私の中では何も終わっていない。

兄は今も王城で働いていて、戻ってくるような気がしていた。

いつものように書類を抱えて。

「ソフィー、また剣を振っていたのか」と笑いながら。


石棺にそっと触れてみる。

冷たい。

「お兄様」

声がかすれた。石棺の蓋を撫でる。

「やっと、お会いできましたね」


報告したいことは、たくさんあった。

領地の葡萄は、今年もよく実った。

ラベンダー畑の道を広げた。

お父様は毎朝、以前と同じ時間に起きるようになった。

でも、誰も笑わなくなった。


「今日、王太子殿下を平手打ちしました」


お兄様なら、何と言うだろう。

ひどく驚いたあと、困った顔をするだろうか。

それとも、よくやったと笑ってくれるだろうか。

「だって、殿下が……」

言葉が続かない。


王太子妃になれと命じられたこと。

殿下を憎んでいるのに、

お顔を見た瞬間、懐かしいと思ってしまった。

何が起きたのか今もわからない。

涙だけが、石棺の上へ落ちる。

一滴。

また一滴。

お兄様を失ってから、はじめて涙を落とした。


毅然とした侯爵令嬢として淑女のふりをしていた。

そう、泣けなかったのよ。

それなのに、ここへ来た途端、溢れ落ちる涙。


石棺に額をつけた。

「お兄様、置いていかないで」  

一年分の涙が、次々にあふれた。

最後まで私のことを心配していたのに、

遺言には、

『父上と侯爵領を頼む』

『生きろ、生きてくれ』

たったそれだけだった。


なぜ、復讐しろと言ってくれなかったのだろう。

王太子を許すなと、そう言ってくれたなら迷わなかった。

王家も。

大公家も。

お兄様を陥れたすべての者を、憎み続け、復讐したはず。

「ずるいです」

石棺を両手で叩く。

「生きろなんて、それだけを残すなんて」

怒っても、泣いても、お兄様は戻らない。

静かな霊廟に、私の泣き声だけが響いた。


遠くで扉が開く音がする。

誰かが霊廟へ入ってきた。

追手の近衛騎士か、

お父様、それとも、王太子殿下。

私は涙を拭い、石棺に背を向けて立ち上がる。乾いたラベンダーがふわりと香った。


捕らえるなら、捕らえればいい。命も奪ってくれたら楽になる。

でもその前に確かめねば。

なぜお兄様は罪を認めたのか。

なぜ王太子殿下は、親友だったお兄様を処刑したのか。

なぜ今になって、私を王太子妃にしようとするのか。

そして、

お兄様は、死ぬ前に何を守ろうとしたのか。


すべての始まりは、一年前。

王太子妃候補が集められた、小さなお茶会だった。


お読みいただきありがとうございます。


第二話は、今夜(8月14日)22時ごろ投稿予定です。

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