第十二話 消えた大公そして北へ
翌朝。
王城の中庭には、すでに馬車が用意されていた。
「行くぞ」
殿下の短い言葉に、私は静かに頷く。
昨夜見つかった紙片は、私の胸に小さな希望を灯していた。
お兄様は無実だった。
ただ証拠がなかった。
その可能性だけで、一年間止まっていた時間が動き始めていた。
馬車は王都を抜け、パレーラ大公邸へ向かう。
重苦しい空気のまま、誰も口を開かなかった。
やがて、高い石壁に囲まれた大公邸が見えてくる。
門は大きく開かれ、庭には近衛騎士が何人も立っていた。
殿下が馬車を降りる。
近衛隊長が駆け寄り、深く頭を下げた。
「殿下」
「状況は」
「昨夜のうちに、大公とご子息バルガックの姿が消えました」
なんてこと。
「逃げた……?」
「使用人も半数以上が姿を消しております」
殿下の表情は変わらず淡々と。
「屋敷は」
「捜索中です」
私たちは屋敷へ入った。
豪華な玄関ホールには、人の気配がない。
高価な絵画は外され、花瓶は割れ、床には書類が散乱していた。
まるで嵐が通り過ぎたようだった。
「急いで出て行ったわけではない」
殿下が床を見つめる。
「必要な物だけを持ち出している」
破れた羊皮紙を拾うけれど、何も書かれていない。
誰かが文字の部分だけ切り取っていた。
「証拠を消した……」
私の呟きに、殿下は頷いた。
「書庫へ行こう」
屋敷の奥、重い扉の前には近衛騎士が立っていた。
「中は」
「荒らされています」
扉を開くと、
壁一面の本棚は倒され、本は床へ投げ捨てられている。
書類は踏みつけられ、棚は引き抜かれていた。
誰かが必死に何かを探した跡だった。
しゃがみ込んで一冊の帳簿を手に取る。
だが、中身は空だった。
必要なページだけが、きれいに切り取られている。
「これも……」
あちらも。
こちらも。
残っている帳簿は、すべて同じだった。
殿下は部屋をゆっくり見渡す。
「証拠を消す者は、自分が何を隠したいか知っている」
「殿下!」
若い騎士が本棚の奥から声を上げた。
「こちらをご覧ください!」
全員が駆け寄る。
倒れた棚の裏。
石壁の一部だけ色が違っていた。
殿下が手を触れる。
小さく音を立てて石が動いた。
隠し棚だった。
中には木箱が一つだけ置かれていた。
殿下が慎重に蓋を持ち上げる。
箱の中は空だった。
「そんな……」
私は肩を落とす。
殿下の指が箱の底で止まる。
「待て」
底板を軽く押すと、一枚の薄板が外れた。
その下に残されていたのは、小さな青い蝋で封をされた封筒だった。
誰も動かない。
封には紋章も名前もない。
ただ一文字だけ、封筒の表に震えるような筆跡で書かれていた。
『北』
殿下は封筒を見つめる。
「……これは、ルイの字だ」
お兄様、お兄様はわかっていらしたの?
自分が死んでも、誰かがここへたどり着くことを。
そして、その誰かへ。
伝えたいことを残していた。
◇
殿下の声に、書庫の空気が張り詰めた。
私は封筒を見つめる。
お兄様は、この封筒を残すことまで考えていたのだろうか。
「開けますか」
近衛隊長が尋ねる。
殿下は首を横に振って、封筒を懐へしまった。
「ここでは開けない、屋敷の捜索は続けろ。どんな小さなものでも見落とすな」
「はっ」
私たちは大公邸を後にした。
馬車へ乗り込んでも、私は封筒の事が頭から離れなかった。
お兄様は何を残したのだろう。
なぜ、たった一文字だけだったのだろう。
◇
王城へ戻ると、殿下は自室へ私を招いた。
机の上には、昨夜見つけた紙片も置かれている。
『……公印は偽造……』
『……大公……』
『……伯爵……』
『ルイ様は無実』
そして、新たな封筒。
殿下は静かに封を切った。
中に入っていたのは、一枚の紙だった。
文字は少ない。
『北へ』
それだけだった。
私は顔を見合わせる。
「これだけ……?」
裏返しても、何も書かれていない。
地図もない。
名前もない。
「お兄様がこんな曖昧なことを書くでしょうか」
お兄様は用意周到な人だった。
伝言を残すなら、もっと分かりやすく書くはずだ。
殿下も同じことを考えたようだった。
「違和感があるな」
二人で考え込んでいたその時。
部屋の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
近衛隊長だった。
「殿下、パレーラ大公邸で一人だけ使用人が見つかりました」
「生きていたのか」
「地下倉庫へ閉じ込められていました」
殿下はすぐ立ち上がる。
「会おう」
◇
使用人は六十を過ぎた老人だった。
衰弱していたが、意識はある。
水を飲むと、小さく頭を下げた。
「申し訳……ございません」
「責めるつもりはない」
殿下が椅子を引く。
「聞きたいことがある」
老人はゆっくり頷いた。
「大公は、いつ屋敷を出た」
「三日前でございます」
三日前。
処刑から一年。
そして、霊廟で紙片が見つかる直前。
偶然とは思えなかった。
「何を持ち出した」
「書類を……箱に何箱も」
「どこへ」
「わかりません……」
殿下は質問を変えた。
「北という言葉に心当たりはあるか」
老人の顔色が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、私は見逃さなかった。
「何か知っているんですね」
老人は震える手を握りしめる。
「……北の館かも」
殿下の目が鋭くなる。
「館?」
「昔、大公家が使っていた狩猟館です」
「今は誰も近づきません」
「なぜだ」
「火事で焼けた、と言われております」
「言われている?」
「ですが……」
そこまで言って、老人は声を潜めた。
「私は、一度だけ見たことがあります。夜中に、誰も住んでいないはずの館へ何台もの馬車が入っていくのを」
部屋が静まり返る。
殿下はゆっくり立ち上がった。
「近衛騎士団を集めろ」
近衛隊長が一礼する。
「はっ」
私は殿下を見つめた。
「向かわれるのですか」
「ああ」
その瞳には迷いがなかった。
「ルイは、私たちをそこへ導こうとしている」
お兄様の残した「北」という一文字。
それは、ようやく動き始めた真実への道標だった。
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