第六話 荒方台事変報告書
観音丸は、筆を握る手が震えていることに気づいた。
いや、違う。
震えているのは手ではない。
この身体そのものだ。
片洞門の崩落から半日。
肉体に負荷をかけ過ぎたのだ。
「......ほんと、無茶したなぁ」
観音丸は、援軍に来た大鎧の大将から、屋敷の一室を借り受けて、紙を広げていた。
誰も勝ったとは言わなかった。
ただ、通さなかった。
それだけである。
だが観音丸には、もう一つ気にかかることがあった。
崩れた道の向こう。
土煙の奥。
あの最後に聞こえた、
ガシャン......
という音。
「気のせい、だといいんだけどね」
観音丸は小さく呟き、筆を取った。
【件名】
荒方台における管理対象外事象、およびザイクロトル個体群暴走について。
【報告者】
観音丸。
神虫御御明神、地上活動代理人。
書き出してから、観音丸は一度だけ筆を止めた。
地上の者たちは、自分を行者だと思っている。
神虫御御明神の加護を受け、空を飛び、光を放つ童行者。
それでいい。
その方が話が早い。
本当は違う。
観音丸という名は、この地上活動代理人としての身体に与えられた呼び名にすぎない。
考えているものは、もっと遠くにある。
惑星ユゴスの暗い工房に置かれた、脳だけの本体。
この身体は、そこから操られている。
壊れれば捨てる。
捨てれば、代わりが来る。
だからこそ、人々が前の身体を見て「観音丸は死んだ」と騒いだ時も、別段困りはしなかった。
困らなかった、はずだった。
「......まあ、今回はちょっと困ったけど」
筆が再び走る。
【概要】
阿邪都須塚内部に収められていた転移船動力炉は、外部からの干渉により、従来の接続を喪失した。
これにより、当該動力炉が維持していた「荒御魂」への経路は遮断されたものと推定される。
ただし同時に、動力炉機能喪失時に発動する報復機構が作動。
荒方台一帯に配置されていたザイクロトル個体群が一斉に覚醒し、人里方面への移動を開始した。
荒御魂。
人の言葉では、そう呼ぶしかない。
だが、あれは神でも魂でもない。
まして、祟り神などではない。
シャッガイの昆虫族が用いた転移船。
その動力炉が、どこか遠い、あまりにも遠い場所へ繋がっていた。
そこにあるものを、人の世の言葉へ押し込めれば、阿邪都須。
荒御魂。
それだけのことだ。
「封じられたのは、よかったんだけどね」
よかった。
そこだけは、本当にそう思う。
あれが開いたままなら、荒方台どころでは済まなかった。
だが、その代わりに目覚めたものがある。
【敵性存在】
一、ザイクロトル個体群。
樹木状外観を有する捕食性存在。
根部を用いて移動し、枝状器官で対象を捕縛。
頭頂部に摂食器官を有する。
一、当該個体群は、動力炉機能喪失時の報復機構として配置されていたものと推定される。
つまり、罠である。
動力炉に触れる者。
手を加える者。
あるいは、機能喪失を試みる者。
そうした介入者を食い潰すために、シャッガイの昆虫族は荒方台に怪物を"植えた"。
何十年も。
何百年も。
灰色の木として。
そして今回、それが起きた。
「......ほんと、性格悪いよね」
もっとも、観音丸たちも似たようなことはする。
だから、あまり悪し様には言えない。
言えないが、腹は立つ。
【封印処理実行者】
阿邪都須塚内部へ侵入し、動力炉の接続遮断に関与した者は、木地師の若年個体(以下「木積」と記載)である。
筆が止まった。
あの松明の人影。
呼び止めたのに、止まらなかった。
待っていてと言ったのに、走った。
何をする気かも分からないまま、塚の中へ飛び込んだ。
そして、荒御魂を封じた。
「……無茶するよね、人間って」
呆れたように言ってから、観音丸は少しだけ笑った。
無茶をしたのは、自分も同じだった。
【外部支援個体】
一、木積の行動を支援したと思われる黒色翼状個体を確認。
一、顔面構造を欠き、高い機動性を有する。
一、所属については断定を避ける。
「断定を避ける、っと」
観音丸は、そこだけわざと丁寧に書いた。
あれが何の手の者かなど、ほとんど分かっている。
大深淵を支配する、あの旧き神。
前の身体を放棄させられた時のことは、今でもよく覚えている。
操作系統を断たれ、地上の身体がただの物になっていく感覚。
あれは、できれば二度と味わいたくない。
だから名前は書かない。
書いても、どうせ御御明神は知っている。
【経過】
観音丸(報告者)は荒方台にてザイクロトル個体群の覚醒を確認。
単独での制圧を試みるも、個体数および耐久性の問題により断念。
周辺の木地師集団、円霧保、隱田郷、別在郡へ通報。
人員避難および山道における遅滞戦術を実施。
一、縄による足止め、失敗。
一、落石による足止め、効果限定。
一、片洞門における丸太打撃、効果あり。
一、最終的に地形崩壊を誘発し、個体群の大半を崖下へ流出させた。
そこまで書いて、観音丸は外へ耳を澄ませた。
風の音。
人の声。
ガシャン、という音はしない。
「......今は、ね」
筆を握る指に力がこもる。
【結果】
一、荒御魂への経路は遮断。
一、転移船動力炉の機能は喪失。
一、ザイクロトル個体群の大半は排除。
一、人里への直接侵入は阻止。
一、観音丸地上活動体は重度損耗。
“大半”。
その二文字を、観音丸はしばらく眺めていた。
全部とは書けない。
確認できていない。
崖下に流れた個体。
土砂に埋まった個体。
折れた個体。
潰れた個体。
その全てが、完全に動かなくなったとは限らない。
そもそも、あれらは木ではない。
生き物である。
しかも、食う。
もし一体でも残っていたら。
もし、崖下で獲物を見つけたら。
もし、別の道を見つけたら。
「……嫌な想像ばっかり出るね」
観音丸は、顔をしかめた。
【所見】
本件は、シャッガイの昆虫族が遺棄した転移船動力炉、および付随防衛機構に起因する複合災害である。
神虫御御明神の管理対象であった動力炉については、結果として無力化に成功した。
しかし、その過程で報復機構の発動を許し、在地人類に対する重大な危険を招いた。
今後、同種機構の処理に際しては、主対象のみならず、周辺に偽装配置された従属個体群の有無を確認する必要がある。
「確認する必要がある、か」
観音丸は、乾いた笑いを漏らした。
確認できるなら、最初からやっている。
荒方台の灰色の木々。
ただの突然変異だと思っていた。
動力炉から漏れる力を吸って、変な木が生えている。
その程度に見ていた。
まさか、全部が怪物だとは思わない。
「……いや、思わないってことにしておこう」
それ以上考えると、報告書では済まなくなる。
【付記】
現地協力者について。
木地師集団、円霧保の住民、隱田郷および別在郡の兵は、極めて限られた時間の中で有効な対応を行った。
特に瀞具法師と称される僧形個体は、片洞門における遅滞戦術の中核を担い、ザイクロトル個体群の進行阻止に大きく寄与した。
以上の者たちについては、今後の地域安定のため、可能な範囲で保護・監視を継続することが望ましい。
保護。
監視。
便利な言葉だ。
人間たちは、自分たちが神に守られていると思っている。
実際、守ってはいる。
だが、見ている。
数えている。
測っている。
それでも今回ばかりは、少しだけ違った。
観音丸は、片洞門でへたり込んでいた男たちの顔を思い出した。
誰も、すぐには笑わなかった。
誰も勝ったとは言わなかった。
ただ、崖下を見ていた。
通さなかった。
その事実だけを、息を切らして抱えていた。
【結語】
荒方台事変は、現時点において収束したものと判断する。
ただし、ザイクロトル個体群の完全排除は未確認である。
崖下および周辺山域の継続監視を要する。
以上。
筆を置いた。
終わった。
紙の上では。
「……送るよ」
観音丸は目を閉じる。
ほどなくして、頭の奥に声が響いた。
――受領した。
神虫御御明神の声だった。
人の喉から出るものではない。
冷たく、乾き、いくつもの意識が重なった声。
――動力炉の無力化を確認した。
――管理対象の脅威度は低下した。
――本件における報告者の判断は、おおむね妥当である。
「おおむね、ね」
――ただし、地上活動体の損耗率は許容値を超過している。
――以後、同様の過負荷運用は慎むこと。
「慎める状況なら慎んだよ」
返事はなかった。
観音丸は、少しだけむっとした。
「それと、ザイクロトルは全部倒せたか分からない。崖下の確認が必要だよ」
――観測範囲内において、個体群の里方面への進行は停止している。
「観測範囲外は?」
沈黙。
観音丸は、口元だけで笑った。
「だよね」
――継続監視を命じる。
「はいはい。結局、僕が見るんだね」
――一層奮励努力せよ。
「またそれ!」
思わず声が大きくなった。
外で誰かが驚いたようにこちらを見た気配がする。
観音丸は慌てて咳払いした。
「……ありがたい御神託を賜りました、っと」
皮肉は、もちろん御御明神には通じない。
通信は切れた。
部屋に静けさが戻る。
観音丸は、折り畳んだ報告書を見下ろした。
荒方台事変。
そう記した。
事変。
便利な言葉だ。
何が起きたのか、誰が悪かったのか、何が残っているのか。
全部を曖昧に包める。
だが、観音丸は知っている。
これは終わりではない。
少なくとも、終わったと決めてよい話ではない。
窓の外に、夕暮れの山が見えた。
円霧山の稜線は黒く沈み、荒方台の方角だけが、まだ薄く煙っている。
その奥。
山のずっと下。
崖の底。
何かが動いたような気がした。
観音丸は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
「......っ」
身体が動かない。
限界だった。
それでも、耳だけは澄ませる。
風が鳴る。
木々が揺れる。
遠くで石が落ちる。
そして。
ガシャン......
観音丸は、目を細めた。
今度は、聞き間違いではなかった。




