トムとジェリー
水の軍勢が僕の脳を叩き続ける音を暗闇の中で僕は聞いた。
蛍光灯の切れた浴室に入ってから、すでに大量の時間が垂れ流されているのは知っている。そろそろ日付が変わるころだろう。
それでもまだ、自分が取るべき行動が見えないでいた。
ヒイチを追うのか。放っておくのか。
いや、問題はそこじゃない。
彼が望むなら戻ってきて欲しいと僕は思っている。
自分にできることがあるならやってやろうとも思う。
だけれど、僕は生徒達に何を教えてやれると言うのだろう。
ヒイチだって、それなりの理由があって学校を出て行ったはずだ。
彼を説得するのに必要なのは治療の必要性じゃない。
貴重な思春期時代を注ぎ込むに足るスタディウムの存在価値。
つまり、僕が彼に何を与えられるかだ。
しかし、そんなもの、ある訳がない。
ガコンッ、と玄関の方で物音がした。
郵便物でも来たのだろうか。
こんな深夜に訪問してくるなんて非常識にも程がある。
どうせドローンか、配達用AIの仕業だろう。
十五世紀、グーテンベルクの印刷機。
十八世紀、ワットの蒸気機関。
十九世紀、鉄道や飛行機の実用化。その姿を尻尾のある電気箱で見ることができるようになった二十世紀。それから半世紀後にインターネットが世界を繋いだ。
科学技術の発達が人間の生活様式を変え、僕たちはスマートな世界を手に入れた。
しかし、それは同時に科学技術なしの生活を困難にもしている。
便利さとスピーディーさを引き換えに、深夜十二時に郵便物を放り込むような野蛮を僕らは甘んじて受け入れなくてはならないのだ。
そして科学技術の最も悪い所は、教育ができないということだ。
結果、僕たちの方が彼らのマニュアルを読み、クリーニングをし、ランニングコストを支払わなければならないという訳の分からないことになっている。
そろそろマシンの方がこちらの意見に歩み寄ってくれてもいいのではないだろうか。
マジョリティにごまをするような生き方をせずに、利益よりも目の前の一人の幸福のために動いてくれるような、道徳的な……
文系気質の僕はそんな素人じみた意見を妄想しながら、タオル一枚を腰に巻き、郵便物に歩み寄る。
ポストボックスに入っていたのは、緩衝材で膨れた茶封筒。ぴったりと口を閉じ、人間様が開けてやらなければ中身の正体を教えてくれないようだ。
「まったく……世話が焼ける」
封筒と酒を煽ったような妄言に呆れながらハサミで大股に切り裂く。
中に入っていたのはエアーマットに包まれたサングラスだった。
手をかざし、テーブルのスタンドライトを灯すと、グラス部分に複数の生活傷が浮かび上がる。中古品、いや型から見て年代物といっていい代物だ。
人工知能も誤送するのかと封筒を見たが、宛先欄の住所は確かにここになっている。ただ差出人には名前はなく、替わりに口紅で付けたキスマークと“父”の形に重ねられた二本のツルハシの絵、そして三桁の数字が刻まれていた。
「……一〇三」
夕方まで続いた雨が地上の熱エネルギーを奪ってくれていたのは幸いだった。
おかげで玄関の扉を開ける前にシャツを着る冷静さを保つことができたからだ。
かといって、服の色を選ぶほどのんびりはしていられない。
すぐに青色以外の何かを身に付け、おそらく同色ではないズボンを履いた僕は、玄関に脱ぎ捨てたままの青い靴の踵を踏んで外に飛び出した。
大声を出す必要があった。
「おい、お前なのかっ!」
誰もいない濡れた夜の街にこだまする自分の声。
しかし、それに反応したのは金の匂いを感じた二十四時間営業の丸ッコロ(・・・・)のみ。
大通りのどこを見渡しても人の影は見当たらなかった。
きっと脇道に入ったのだろう。
足で近所を探し回るしかないか、と段差を降りながら踵を靴に捻じ込んでいた時、部屋の奥から呼び出し音が鳴りはじめた。
『アドレス未登録者の方から着信です』
ニッティに内蔵されている人工知能が僕に語りかけてきた。
『留守番電話につなぎますか?』
僕は一度部屋に戻った。
相手は茶封筒を届けた配達人、もしくはそれを指示した誰か。このタイミングだ。そうとしか考えられない。
『アドレス未登録者からの着信です。留守番電話につなぎ、録音を開始――』
僕はディスプレイの応答ボタンをスライドし、耳をすませた。
「……もしもし」
高性能のスピーカーから聞こえた音声データは、まるで耳元でささやかれているようだった。
その音声を意味を持った言語に紡ぐまで、時間がかかった。
どうやら僕のちっぽけな脳はゲシュタルト崩壊を起こしたようだ。
赤いロボット、覚えてる?
彼女は確かにそう言った。
日常的な色を表す形容詞で修飾された日常的な名詞という凡庸な組み合わせ。
しかし例え、どんなチープな表現だって、そこに繋がれた記憶次第で、辞書的な意味以上の何かになる。そして誰かと共有されたものならば思い出だ。
浮かび上がってきた視覚的映像。
それは調律がいつか僕の家に上がった時のリビングでの一場面だった。
「……うん、覚えているよ」
彼女は笑った。
僕もそれに応える。
意味すら持たないその声が、十年間という月日の壁を飛び越え、僕たちを繋いだ。
正に電話だ、と思った。
「あの時、僕は衛星放送で海外のアニメを見ていた」
「トムとジェリー」
「そうそう。どの場面でも追いかけっこばかりしていて、片方が逃げれば、片方が追いかけて……」
「決して繋がることはない関係」
「でも、離れたらまたお互いを気にしてるんだ」
ワイヤレスイヤホンを耳に捻じ込み、外に出た。
彼女はきっと近くにいる。
「私にとって空男はずっとトムだったよ。あなたは?」
「君をネズミに例えたら怒らない?」
「怒るわよ。でも、それは嫌いだからじゃない」
目を閉じ、冷気を吸った。
「……でも、一度は失望しただろ」
この発言は、仮に自分史を書くとしたら、赤字の太字で表すような重要な出来事だ。
彼女に会ったらずっと言いたいと思っていた。
「やっぱり、そこは忘れられないか」
「あの時の後悔を水に流せるほど僕は器用じゃないから」
時効が刑の執行を消滅させたとしても、加害者の罪の意識は消えない。
過去の清算をしないまま表面上だけ平和条約を結んだ二国間は、いつか必ず破綻する。
そうだ、何事もやり直すには、根本的なことから始めなければならないのだ。
「トムとジェリーはね、きっと赤いロボットみたいな存在が必要だったんだよ」
「それは第三者の存在ってこと?」
「あのロボットに私は命令したの。私たちの部屋を隔てるコンクリートの壁をどうか破壊してくださいって」
「プラスチック製のオモチャだったけれど」
「女の子にとっては何だっていいのよ。例えうさぎの縫いぐるみだって私の思いを聞いてくれるのなら」
街灯の下で周囲を見渡す。
「やっぱり調も気にしていたんだね。僕みたいに」
「じゃなきゃ、あんな昔の保護グラスをいつまでも取っておきゃしないわよ」
「ねえ」
僕はこれ以上我慢できなかった。
「君は今、どこにいるの?」
直接会いたい。彼女に、今すぐ。
こんな気持ちはいつぐらいぶりだろう。
自分で自分を抑えきれない。
そう分かっているのに止められない、止めたくない。
「調律、近くにいるんだろう?」
「……その前に空男。どうして私があなたの居場所を知ったのか聞きたくない?」
「それも聞くよ、聞くけれど」
「ハノイって子が教えてくれたのよ」
「……ヒイチが?」
頭が混乱してくる。
なぜ調律がヒイチ・ハノイのことを知っているのか。
片や脱走した僕の生徒。
片や逃げ出した僕の幼馴染。
何のつながりもない二人が共通の知人である僕を介さずにつながっている。
「私たちは新宿にいるわ。明日の午後二時、会いましょう。《ノーウォール》で」
「ノーウォール? ……でも、僕はまだ」
そこで通話は強制終了された。
ツーツーというビジートーンが、行先を失った感情をあざ笑う。
見渡せる広さの大通りで、僕は一度飛び越えた壁が出現するのを見た気がした。




