授業中の取り留めもない空想
ヘッドセット、バーチャルグラス、コンタクトレンズ。
それらの情報通信機器と《AI》を連れて、街から街へ国から国へとさすらいながら生活する者たち。
過去にはノマドワークとかテレコミューティングという呼称だったそれらの職業スタイルが一般化してから、人々の生活は大きく変化した。
現在、彼らはバードと呼ばれている。
元は古代ケルト族の吟遊詩人のこと。上下が一続きの青いローブを身に付け、神秘的、魔力的な力を持っていたとされている。
《Bard of Avon》かのシェイクスピアもバードの一人だった。
一九六一。西ベルリンを囲んだコンクリート壁の壁が崩れた。
打ち壊したのは重機でもツルハシでもなかった。
衛星放送だ。
その七十年後、僕が五歳の時だ。
物理的な現実と仮想世界を隔てていた見えない壁が音もなく姿を消した。
それは破壊といよりも、巨大な津波のようなものがやってきて壁を丸ごと沈めてしまったような出来事だった。
後に第一次オーバーシンギュラリティと呼ばれたこの現象。
GNR(遺伝学Genetics、ナノテクノロジーNanotechnoligy、ロボット工学Robotics)時代の幕開けだった。
僕ら一般市民にとって、その出来事は正に神秘的で魔力的な、得体の知れない何かだった。
世界地図に太く引かれた国境線。
ビフォーファイブとアフターファイブ、仕事と遊びの境目。
名字に代表される血縁を特別視する家族法。
かつて地上に存在した数々の線が青の地下に生き埋めになった。時代の波に抵抗する者たちもろともだった。
『現実と仮想現実が複合化された社会で生き残りたいのならば、
あなたの生物的身体を《バージョン2.0》へと進化させることだ』
後に亡命先で暗殺された米物理学者が世界に向けて行った宣言に対し、大抵の者はちんぷんかんぷんだった。
ただ、ぼんやりとした不安があるばかりで。
常時VRと現実を行き来できるデバイスと、自分の替わりに働いてくれるAI。
一部の富裕層やノマド達がそれらの異物を率先して受け入れはじめたことで、世界は少しずつ変わっていった。
以降、自分や自分の大切な人のことしか考えていない《俺ファースト》な連中(つまり僕やあなたのことだ)もナノマシンの入った注射針に震える腕を差し出しはじめる。
知人で最初にアップデートしたのは、隣の一〇三号室に住んでいた中外さん家族だった。
忘れもしない、十四歳になる年の夏だった。
中外さんは僕の家と同じ三人家族。調律という同い年の女の子がいた。
「ねえ、家出ごっこしようよ」
学校から帰って来た僕を彼女はマンションの入り口で待っていた。
それは彼女が引っ越す前日の夕方のことだ。
派手好きなのに、珍しく黒で統一した服装だった。
最近、街でよく見かけるデザインのサングラスを付けている。
背中のショルダーバッグは膨らんでぱんぱんだった。
「二人で?」
僕は訊ねた。この時、すでに《ごっこ》という言葉が嘘であると見抜いていた。
「うん。きっと楽しいよ」
差し出された腕、そして首に巻かれた包帯。
服装とのコントラストでやけに白く見える。
「お母さんとケンカでもしたの?」
彼女の表情が一気に変わった。
「……嫌だよ。空男は私の味方でいてよ」
身体がふわっと浮いた。
彼女の腕が僕を引っ張ったのだ。
「ま、待ってよ」
僕は抵抗した。
別に彼女の敵のつもりはないが、家出をする理由が分からなかった。
だって彼女は夏に生まれて、十四歳で、幸運だった。
明日になれば東京でキラキラした新しい生活がはじまるのだ。
「調はどうして行きたくないの? 僕だったら絶対……」
「空男は今の学校が嫌なの?」
「えっ、そんなことはないけど」
「離れ離れになるんだよ。友達ともマンションの子どもたちとも」
「……そんなの。またいくらでもできるよ」
「本当にそう思うの? 替わりなんていくらでもいるって。隣に越してきた子が女の子だったら、私と同じように一緒に遊んだりする?」
「な、何の話だよ」
「私にとってはみんな特別なの。空男も、みーちゃんもアケミも。替わりなんていない。みんな好き、大好きだもん。空男は違うの?」
「そりゃ、僕だってそうだけれど。でも将来のためだろ? バージョンアップしたのはうちのクラスで調が一番なんだし……正直、羨ましいよ」
「もういいっ、空男なんか知らないっ!」
ショルダーバッグのキーホルダーがくるりと回転する。
彼女はカンカンになって、一人で駅の方へ歩いて行った。
あの時のことを思い出すたび、僕は想像する。
もし彼女の願いを叶えて電車に乗っていたら。
本気で家出をするのなら、人通りの少ない駅で降り、古い神社などに隠れるべきだ。
そうすれば、その日のうちに警察に見つかるようなヘマはしなかった。
一晩で見つからなければ彼女の両親もさすがに引っ越しを延期せざるを得ない。そして、引っ越しを反対する調の気持ちを重く受け止めるだろう。
その後だったら、例え見つかったとしても話し合い次第で自分の未来を変えることもできたかもしれない。
僕の未来も少しは変わっていただろう。
しかし、現実はそうはならず、彼女は翌日家族と共にあっけなく神奈川を去り、僕は三十九度の高熱に見舞われベッドでうなされていた。
アドラー心理学を信じるなら、僕は風邪を引くことで「彼女と会うことを避けた」のかもしれない。
実際、その次の日、僕はけろりと元気になって学校に行った。




