ゲシュタルトの祈り
「……それがイリノイをスパイにした理由?」
自分のことならいくらでもあきらめるし、我慢もする。
しかし、それが生徒のためとなれば話は別だ、そんな自分で在りたいし、そうでなければならない。
「オゾン、僕らはパートナーだろ」
「……空男」
「生徒はともかく僕がスタディウムを逃げ出す理由はない。そう分かっていて、なぜ?」
「……言えない」
朝日に照らされた体育館が上下に揺れた。
こんな映像になるのは、VRグラスを手に持ち歩いているからだろう。
《言わない》じゃなくて、《言えない》という彼女の言葉。
そこに彼女を縛り付けている目に見えない糸の存在を感じ取った。
その糸を辿った先には、あのゾラとかいうニワトリがいる。
もちろん、根拠はない。勝手な妄想だ。
「ねえ、空男。やっぱりこっちに戻ってきてくれないかな」
「……今から」
「今すぐ、ダメかな?」
平静さを装ってはいるが、その声の響きにはどうしても悲しみの色が混在していた。
そんな彼女に「なぜ」と問うつもりはない。
この通話も記録されている。
「私、心配なの……あなたが」
深い意味もなく視界に入れていた雷門の社。
その奥側から黒いフードを被ったイリノイがひょっこり顔を出した。
いつまでもやってこない僕に豪を煮やしたのだろう。
遠くの僕にも分かるよう、大袈裟に手招きを繰り返している。
これ以上待たせると、うるさそうだ。
「……オゾン、一つお願いがあるんだ」
早足で歩きながら、僕が言った。
「えっ?」
「《大勝ちで手に入れたお金で、娘さんから借りた分を返してあげてくださいね》。タダさんにそう伝えておいて」
「……それって」
「じゃあ、頼んだよ」
「あっ、空男っ……待っ」
赤いアイコンで通話を終了した後、ホームボタンを長押しする。
携帯電話の存在も、オゾンのことも一度忘れようと思った。
理由は僕がスーパーマンでも一人前のバードでもない、ナノマシンを入れただけのノーマルヒューマンだからだ。
複数の処理を同時に処理するなんて、できない。
目の前のことに一つずつ取り組むので精いっぱいだ。
「トゥーロングトゥーレイト、もうっ!」
やっと追いついた僕に対して、イリノイは容赦ない言葉をぶつけた。
地団太を踏み、怒りを大地にぶつけている。
かなりお怒りのようだ。
そこに焦りや不安の色も見える。
まあ、無理もない。というより、それでいい。
法律に触れる行為をしようという時に平静だったら、それそれで心配になる。
「さっさと行ってさっさと終わらせる! でしょっ!」
「ああ。悪い悪い。行こう」
パーカーの腹部のポケットに手を突っ込み、ネズミのような足取りで進むイリノイ。
できるだけ正体を隠そうとしているのだろうが、かえって怪しい。
「テイラー、元気かな」
両手をドッキングさせて、腕を伸ばした。
空へ。
イリノイには悪いが、何だか解放された気分だ。
「そりゃ元気でしょ。他人の身体を買ったんだから」
「棘がある言い方だな」
「だってそんなの……おかしいじゃん」
「気持ちは分かるけどさ、彼にも彼なりの事情があるんだ」
「理由があれば何したっていい訳じゃないでしょ。違う?」
そこにはテイラー以上に僕への批判が込められていた。
「違わない。イリノイは正しいよ」
嘘偽りのない思いだった。
「……だったらどうして先に進むんだよ」
フードの奥から見上げた恨みを込めた瞳。
大人は汚い。そう物語っている。
そうだ、それでいい。
純粋であることは子どもにだけ許されている特権だ。
「《ICH BIN ich und DU BIST du》」
「……ドイツ語。先生、何て言ったの」
不在の商店街。軒にぶら下がった提灯の列。
活気が溢れていた時代の様子を想像すると、余計に物悲しく感じる。
「《私は私、あなたはあなた》……『ゲシュタルトの祈り』という短い詩の一節だよ。書いたのはユダヤ人のフレデリック・パールズ。精神科医だ」
「寂しいこと言うんだね。それが先生の返事なの?」
「ネガティブなニュアンスに感じた?」
「人が誰かと繋がることができないって、そう言ってるみたいに聞こえた」
「もしそれが事実だとして、それは本当に不幸なことなのかな」
「だって……」
イリノイの小さな手。繋がりを求めてこちらに伸びる。
肩まで伸びた髪と赤色のスカートが風に浮いた。
僕は足を前に出し、冷え性な彼女の手を握った。
「繋がるって、やっぱりいいことだと思うんだ」
左手の上に、右手が加わる。
二つ分の握力が痛いぐらいに僕の手を包み込んで、締め付けた。三つの粘土を一つにするように。
「でもどんなに力を加えてもさ、境目が消えることは決してないんだ。輪っかを乗せた誰かさんがそう設計したからだよ。そして」
手の塊を目線の位置まで持ち上げる。
そして、ミカンの皮を剥くように四つ目の手で彼女の手を剥がそうとした。
「僕はそこに悪意はないと思ってる。むしろそれこそが僕たちの救いなんじゃないかって」
「……意味不明意味不明」
抵抗する、頑なな力。
まあこの程度なら、大人の男性の力で簡単に無力化することができる。
でも僕はそうはしなかった。
むしろ力を抜いて、彼女の手を包み込んだのだ。
『北風と太陽』。
むかしむかし、そのまた昔のショートストーリーで学んだように。
コートは、脱がされた。
「……不透明な小石」
再び両手をパーカーに突っ込んで、彼女がつぶやいた。
「あれ、悪口じゃなかったんだね」
「悪口?」
「おかしいとは思ってたんだ。私たちを石ころ扱いするなんて、先生らしくないって」
イリノイが上を向いた。
商店の屋根に挟まれ。窮屈そうな空だった。
「生徒だけじゃないさ。僕も……いや誰だって、他人の心の本当の色を見ることなんてできない。強烈なカラーの人だっているけれど
あれだって結局は後から加えた色に過ぎないと思う」
「そりゃそうだよ」
「サラの気持ちも。僕に追いかけて欲しかったのかどうかだって」
「はいはい。だからそれを確かめるためにここに来たんでしょ?」
彼女が僕の背中を叩く。
「先生、ニッティ貸して。あと紙とペン」
「いいけど、電話?」
「ううん、調べるの。そのパスカルのゲシュタルトの祈りってやつ」
「パールズ、な」
パーカーから取り出した手。
ニッティを受け取る前に、彼女は自分の手を見つめた。
赤と白のまだら。
僕の手を強く握っていたからだろう。
「リアルペーパー、マジで持ってんだ。こんなのどこで買えるの?」
「バージョン1.0の人にはリコメンドで普通に出て来るけど。バードには不要だから」
「でも太宰は結構持ってるよ。実物の本とか」
「あれは特殊だ」




