cherry & cigarette
「でも彼女はそれを拒否した」
カウンター越しに彼女が言った。
乾いたタオルでコップを拭く音。
彼女を見上げようとしたが、頭に鋭い痛みが走る。
「……ごめん。何度も同じ話」
「いいよ。常連さんだもん」
タバコに火を付け、丸椅子を回す。
午前一時過ぎ。周囲の客はいつの間にかいなくなっている。
どうやら少し眠っていたようだ。
「毎日悪い。いくら?」
タバコを咥えたまま、尻のポケットをまさぐる。
彼女を見ると、拭いたグラスを新聞紙で包んでいた。
「今日はいいわ。その替わり、もう少し付き合って」
「……そっちがいいなら」
「ありがとう」
彼女が視界から消える。
再出現した彼女は段ボールを抱えていた。
その中に、さっきのグラスを入れる。
そういえば最近、後ろの棚が寂しくなったな。
同じ銘柄しか頼まない僕には関係がないけれど。
「なあ、それってもしかして」
「未練はない?」
言葉を遮るように彼女が言った。
白いシャツの襟もとから、蝶ネクタイを抜く。
プチン、プチンとボタンを二つ外す音がやけに耳に残った。
「ああ、ごめんね。仕事モードだと疲れるから」
「……いや、別に」
結んでいた髪を解き、左右に振る。
甘酸っぱいラム酒のような風。
「ええと、未練って?」
「だって憧れてたんでしょう?」
「……まあね」
「でも途中で怖くなった」
僕の横にカクテルグラスを置いた。
水色の液体に染められ、チェリーが不気味に沈んでいる。
いかにも女性が好きそうだが、彼女には幼な過ぎる飲み物に見えた。
「乾杯」
ぶつかったグラスの音色は彼女の方が響きがあった。
飲み過ぎた僕は口を付ける程度だったが、彼女は一気に飲み干した。
「おいしいね」
満足そうな彼女の笑顔。
仕事から解放されたように腕を伸ばし、こちらを意識していないのか、大胆に足を組む。
僕は目を反らして、話題を復活させた。
「……別にVR自体を否定しているわけじゃないんだ。そういう映画も嫌いじゃないし。身体に異物を入れるのが嫌なだけで」
「……どうして?」
チェリーの残ったカクテルグラスをまじまじと見つめながら、彼女が訊ねた。
そういえば、名前が分からないな。それに僕の方も名乗っていない。
「どうしてって……なんだか、人間じゃなくなる気がして」
青い瞳に変わった両親の顔を思い出す。
同時に、保護グラスを付けた調律の姿も頭に浮かんだ。
「……やっぱり未練があるみたいね」
「えっ?」
「あなた勘違いしてる。さっき私が訊ねたのは幼馴染のことよ」
「……あ、ああ。ごめん。気付かなかった」
「いいの。私も同じだから」
「同じ?」
タバコが口から抜き取られた。
これまでもそうしていたかのように奪った吸いかけを咥え、軽く吸い込む。
赤い唇から漏れる白い煙。
彼女が吸うのは初めて見たが、僕よりも似合っている。
「……私、来年から教育機関に勤めるんだ」
「教育機関?」
「ノーウォールってユートピアみたいに言われているけれど、本当は違う。昔と変わらない。ううん、昔以上に大変な社会なの。そこで傷ついた子どもたちを保護し、再び社会に復帰できるように支援する。そんな学校を作る」
「……すごいな」
乾いて硬くなった手拭きで顔を拭く。
適当な言葉がそれ以外に思いつかなかった。
「資金も集まったし、国からの認可も得た。あとは人手なんだけど……」
「悪いけど、僕にはそんな知り合いは一人も」
「じゃあ、あなたは?」
差し出された短いタバコ。
口紅が付着している。
「ははっ、僕に仕事は無理だよ」
こんな時の笑い方は上手い方だと思う。
「あなたに手伝ってもらいたいんだ。先生の仕事」
「冗談はよしてくれ」
これまで一度もまともに働いたことなんてない。
一日中、ネットサーフィンをして映画を見るだけの日々。
そんな僕が仕事?
しかもよりによって教師なんて。
「冗談なんかじゃないよ。私は本気で口説いてる」
「……働く必要を感じないんだ。最低限の生活費は保障されているから」
「映画を見て、夜に一杯やるだけならね。でもあなたはそれで満足なの?」
タバコの火が進行し、彼女の指に近付いていた。
このままだと火傷しそうだ。
しかし、彼女の手も僕を見つめるブラウンの瞳も、決して動こうとはしなかった。
「……この店は?」
「売却済み」
まぶた越しに眼球を指で圧迫する。
くるりと反転して、僕を見つめるイメージ。
お前はこのまま何もせずに一生を終えていいのか。
それで本当に満足なのか。
頭痛は続いている。
『ねえ、家出ごっこしない?』
内面に中外調律が現れる。
この後の思考回路の行き先は通学路のように決まっている。
『もし僕が頷いて、彼女と電車に乗っていたのなら』をさまよい、
『もし僕が頷いて、両親と引っ越していたのなら』で佇む。
行動した上での失敗なら学びがあるだろう。
しかし、行動せずに成功しなければあるのは後悔ばかりだ。
ならせめて、新たな後悔を生み出さないような選択を。
そのための具体的な手段は理解している。簡単なことだ。自分の気持ちに逆らって、頷けばいい。
それが肯定の証。教師になり、この名前も知らない女性と新しい人生を歩む。
飛び込んでしまえば、意外と呆気なく過去を忘れられるかもしれない。
見方を変えればこれは千載一遇のチャンスなのだ。
なのに、何だろうか。このもやもやとした気持ちは。
「……少し考えさせてくれないかな」
僕の口はそう言った。
こういう類のことは、たまにある。
自分の言葉で本音に気付かされることが。
「不安?」
彼女の指で弾かれた小さなロケット。軽い曲線をえがいて床に落下したら、炎はフィルターと分離して 床の上を転がった。
命がけで火星に移住した冒険家達から見れば、僕の悩みなど些少すぎるだろう。
「……分からない」
空のカクテルグラスが傾く。
やがてチェリーが耐えられなくなって、彼女の口の中に転がった。
「私達ってさ、生まれた時はみんな透き通った色をしてたと思う。でも、大人になるに従って周りの色んなものに染まっていくんだ。たぶん、自分のカラーがないと生きていけないって空気が、そうさせてる」
「君の言うカラーっていうのはアイデンティティーって意味?」
「層圏オゾン。私の名前」
彼女が握手を求めた。
「神宮寺空男」
遅い自己紹介だった。
「子どもたちってね。カラーのある大人に憧れる。そして自分もその色に染まりたいって思うんだ」
「僕はアオレンジャー派だったな」
「何それ、真面目に聞いて」
手で強く押され、丸椅子から滑り落ちそうになる。
「おいおい、危ないよ」
「友人として忠告しておくけど、空男のジョークって中途半端で笑えないからやめておいた方がいいよ」
「……了解」
座り直し、袖をまくった。
新しい煙草に火を付ける。
『友人として』と言う時、彼女は早口だった。
「ちなみに、僕はそこで何をする?」
「撃ち落とされた鳥たちの止まり木、ってところかな」
「具体的には?」
「それはこれから」
「……そんなんで大丈夫なのか」
「うん。だって公務員だもん」
「……怠惰」
「そうかな。私には周りが生き急ぎ過ぎてると思うけど」
「それは否定しない。平均寿命も一〇〇歳を超えたらしいし」
オゾンは立ち上がった。
僕の手を握る。
彼女の手は熱かった。
「今日はありがとう。いい返事を期待してるわ」
「……明日、また来るよ」
「最後に一つだけ。強烈な色は刺激的で憧れるけれど、自宅に置くには強すぎる。あなたは自分に何もないと言うけれど、それが仮に真実だとしても、そんな《何もない》が必要な場合もある。少なくとも私はそう思ってる」
「……傷つくべきなのかな。それとも安心するべきなのかな」
「さあね」
「……とりあえず、悩んでみるよ。十年かかかって出ていない答えを一晩で出せるか、怪しいものだけれど」
「うん。でも覚悟しておいてね。私は簡単にはあきらめないよ。それも私の教育方針だから」
「ははっ、僕が書くのは契約書じゃなくて入学願書?」
「……両方かな?」
家までの道のりの記憶はない。
飲み過ぎたせいか、思考に意識を持っていかれたせいでその日の風景に目がいかなかったのだろう。
ただ、決断をした時のことは覚えている。
その晩、照明を切った部屋の中で、僕は四十年前のテレビドラマを見た。
それは学園モノで、平凡な教師のどこにでもいそうな普通の生徒たちの物語。
八時間ぶっ続けで観て、見終わるころにはとうに朝になっていた。内容を説明しろと言われても記憶は曖昧だが、ただ好きな言葉は覚えている。
『本当に世界を変えられるのは教師なのではないかと僕は思っている』
可能性があるのなら、賭けてもいいのではないかとも思う。
まあ、それぐらいには感動できる作品だった。




