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曇った窓ガラスと本音


 

 

「……ちっ」


 彼を一瞥し、僕はナイフを握った。重量感は現実のものと変わらない。金属の光沢も。

 確認のため、切っ先を手の平にあて、軽く押してみた。痛覚が軽い刺激を受けた。

 バーチャルの体でも痛みはしっかりと感じる。


「これ、本当に大丈夫なのか?」


 念を押すように訊ねると、ヒイチは一瞬イラッとした顔を見せた。


「……まあいいや。じゃあコツを教えてあげるよ。思いっきり、全力でガツンってやんの。そしたら痛みもダメージもキャンセリングされるから。その替わり、ビビッて中途半端にやっちゃったらめっちゃ痛いよ?」


 脅すような言い方だったが、そんなことはあまり気にならなかった。

 僕は刃渡り十数センチの凶器をただ睨みつけていた。

 これを自分の目に入れるだって?

 馬鹿な、そんなの無理に決まっている。


「ヒイチ、これは……」


 大袈裟に首を振り、彼に視線を戻した。

 その時の彼の目。

 僕の意識が切り替わる。

 知らない土地で、こちらを見下ろすカメラレンズのような。

 何が目的かは不明だが、僕の行動から何かを確かめようとしている。


「……もう知るか」


 乱暴にネクタイを抜きシャツのボタンを外す。


「おっ、男じゃん、先生っ!」


 そうだ。これはきっと《試し行動》というやつだ。

 保護者や教師が、自分をどれだけ受け入れてくれるのか。それを知るために、わざと困らせる振る舞いを行う。

 行動要因として断定的に語られるのは愛情不足。

 だとしたら、教師が彼に与えるべきことは一つしかない。


「……出ていくなら、一言ぐらい言えよな。どうせ他の教師にチクったりはしないんだから」

「だって言う義務ないじゃん」

「ヒイチにとってサラは何?」

「ん、教えて欲しいの?」

「恋人というわけでもないだろ」


 そう言ったのは念のためだった。

 サラは十歳だ。


「馬鹿なこと聞くなよ。俺は色気のある大人の女性の方が好みだって」

「オゾンみたいな?」

「あれ、色気ある? 俺は鷲の母がいいね」

「誰だよ、それ」

「あれ、そんなこと言うの? 幼馴染的な相手なんでしょ?」

「……中外調律とどこで会った?」


 なぜだろう。声が上ずる、イライラする。

 まさか、嫉妬でもしているのか。

 僕の半分ちょっとしか生きていない子ども相手に。


「あーあ、また質問? 時間稼ぎもいい加減にしろよ。こっちは残り僅かな人生を先生のために使ってやってんのにさあ」

「こんなもの、誰がやるか」


 力を込めて、ナイフを教壇に突き刺した。

 散らばる光の粒。氷のように砕け、消える。

 どうやら僕はマザーテレサにはなれないようだ。

 むしろ彼女に抱きしめられる側か。

 だが、後悔など微塵もない。


「……ほらね。やっぱりだ。先生って結局俺たちのこと信用してない」

「お互い様だ。そもそも僕はヒイチを連れ戻そうなんて思っていない。そっちが望むなら別だけれど」

「……どうしてもって言うなら考えてもいいけど?」

「僕をあまり舐めるな。生徒の言葉が嘘かどうかなんてすぐに分かる」

「……空男さあ」


 ヒイチが立ち上がった。

 窓際に近付き、息を吹きかける。


「そういう大人の嘘、止めた方がいいよ」


 白く曇ったガラスの表面に指を動かす。

 僕はそれを見て、言葉を失った。


『They're opaque(不透明な) pebbles(小石たち) for me』


「……どうして知ってる」


 それは先日、僕が書いたのと同じ文字だった。


「ゴールキーパーと俺、親友なんだよね」

「……オチクンが? まさか、あいつがそんなこと」

「生徒を舐めない方がいいよ。あんたが教師の仮面を被っているのと同じように、俺達も裏の顔がある」

「……どうせ脅したんだろ」

「はい出ました。根拠もない決め付け。結局さー、あんたも他の大人と一緒だよ。都合のいい優等生ばかり棚に上げて。俺みたいな厄介モンは邪魔者扱い」

「……違う」

「先生、イリノイのこと、気に入ってるでしょ? 俺に会いに来る口実で14歳とデートってか? マジ気持ち悪い」

「違うっ!」 


 これまでうんざりするぐらい目にした、口論のシーン。

 ディスプレイ越しの傍観者だった僕にとってそれはフィクションの典型でしかないと思っていた。

 しかし、僕は今、正にヒイチの首元を掴み、窓際に叩き付けて赤い瞳を間近で睨みつけている。

 体罰に対する是非も教育理論もへったくれもない。

 この舐めた口を聞く被害妄想たっぷりのクソガキを殴り飛ばしたい。殴り飛ばさなけれればならない。


「あ、あれっ先生、生徒を殴んの? 公務員のくせに」


 少し慌てた様子のヒイチ。

 一見不良のようでも、十七才は十七才か。


「お前が言うな。ここはノーウォール。お前達の大好きな無法地帯だろ?」

「マジで言ってんの?」

「さっきの続きだ。殺す気でやればキャンセリングされるんだろ」

「馬鹿、やめろって!」


 顔を両腕でガードするヒイチ。

 僕は構わず、狙いに向けて拳を走らせる。

 多少の痛みは覚悟の上だった。


 しかし、意外にも窓ガラスは現実の物理的法則に従った。冷たく乾いた音を立てて割れ、破片の一部が宙を舞う。

 一瞬、風景がスローモーションになった。

 

 

 

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