Not 《Artificial》, but 《Augment》
色覚異常の男が生まれて初めて色を見た。
どういう気持ちか、想像できる?
目の前の風景に認識が追いつかない瞬間。
その内面を。
どんな反応をするのか、家族が嬉しそうに見守る中。
男は自分の両手を眺め、自宅の庭の花を見つめ、空を仰ぐ。
鳴き声だった。
言葉を全て失ったように彼はアルファベットの“O”と“U”の間を行き来した。
みっともなく、大袈裟に両手を広げ、全身を震わせながら鳴いたのだ。
彼の内面はどんな言葉でも表せない。
《感動》ではチープだし、《人生が一八〇度変わった》というのも違う気がする。
なら《アップデート》は?
Not 《Artificial》, but 《Augment》=人間の模倣ではなく、人間の知能拡張を目的とした人工知能の開発。
その先に待っているAIの役割は人間のよきパートナーであり、コンサルタントであり、ファミリーだ。
彼らは人間の人生をより豊かに、愛すべきものにする手助けをする。
大げさなことじゃない。
大気圏を超える塔を建設したり、寿命を何十倍も伸ばしたり、そんな大それたことじゃないのだ。
僕らの望みは単純作業に追われる不幸の削減を、灰色の世界に二十四色の絵の具を、ぽっかりと空いた穴にぴったりとはまる映画のチョイスを。
そういうちょっとしたことを、ちょこっとやってくれるナイスなやつ。
どんなにアップデートを繰り返しても、とても神にはなれそうもない、愛しいペットのようなやつが欲しかった。
だって、僕たちはさ、たくさんの過ちを犯しながらではあるけれど、それなりに、それなりになったじゃないか。
悪くない、そう笑えるぐらいにこの世界に生きてられるぐらいになったってのに。
誰が人間か、分かりゃしない。
そんなバージョン2.0にアップデートした僕は、いったいどんな声で鳴けばいいんだ。
▽
予約していたホテルはすぐに見つかった。
最上階、一泊で給料半月分のスイートルーム。僕にはもったいない部屋だが、イリノイをここに留めておくためだ。致し方ない。
「マトリックス。見終わるころには帰ってくるよ」
「何だよー、私は留守番?」
ベッドのスプリングをぎしぎし言わせながら、不満を垂れるイリノイ。
膝元には枕。テーブルの上には、売店で購入したLサイズのキャラメルポップコーンが置かれている。
「そう言う割には、くつろぐ気満々に見えるけれど」
「うるさいな。これは後で。私も行く」
「来てどうする」
「だーかーらー、層圏先生に頼まれてんの。先生から離れるなって」
オゾンが?
「あっ、これ内緒ね。私が言ったって層圏先生に言っちゃダメだよ」
「あ、ああ……でも、どうして彼女はそんなことを?」
「先生が心配なんだよ、きっと」
「スタディウムに戻らないと思われてる?」
「かもね」
結局、二人で部屋を出た。
「あっ、そういえばこれ」
エレベーター内で、イリノイが僕に一枚のメモ用紙を手渡す。
黄ばんでボロボロの紙に、数字が書き殴られていた。
「タダさんが先生にって」
「……どうして受け取ったんだよ」
「だって滅茶苦茶頼まれたんだもん。仕方ないじゃん」
確かに、イリノイに罪はない。
悪いのはタダさんだ。
「《三つずつ》で頼むって言ってたよ?」
「……まったく」
今すぐ連絡をして文句の一つも言ってやりたかったが、そんな余裕はない。
調律に会い、ヒイチと話をする。それ以外のことは後回しにしたかった。
しかし、完全に無視するのも気が引ける。
かと言って今から連絡をして彼と押し問答するのは嫌だ。
僕はメモ用紙を手に、正面を見た。
両の瞳から小さな動作音。
何もない空間にアカデミー女優、ジョディ・フォスターが現れる。本物はすっかりおばあちゃんだが、僕の目の前にいる彼女は映画『タクシードライバー』で見た若々しい姿そのものだった。
彼女が現れたのは自分の人工知能の姿をデザインしていなかったせいだろう。ユーザーの興味関心に合わせた検索連動型広告というやつか。
「空男、何の用?」
忙しい中呼び出されたような顔で僕に訊ねる。人工知能のくせに生意気だ。
「この番号の馬券を購入しておいてくれない?」
「それは構わないけれど、いいの? あまり乗り気がしない顔をしているわ」
「まあね。でも、だからこそさっさと処理してしまいたいんだ」
「分かったわ。他に用はある?」
僕が首を振ると、彼女は「また会いましょう」と言い残して、幽霊のように消えた。
六万BTCは痛い出費だが、これでタダさんのことを気にとらわれずに済む。
「先生、ああいうのが好きなの?」
イリノイが訝し気に僕を見た。
知らない女性が現れたことに関して、何か気に障ることでもあったようだ。
「そんなつもりはないけれど。映画をよく見るせいじゃないか」
「ふーん」
エレベーターが開き、エントランスから外へ。
タクシーに乗り込む。
「ノーウォールへ」
イリノイの視線は無視した。




