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壁を通り抜ける時


 天から地面に向けて垂直に引かれた銀の線。

 現在(・・)十八キロメートルにも及ぶそれは、世界第六位の高さを誇る《浮世》。新宿の超高層タワーだ。雲の切れ間から光が漏れ、地面に降りる薄明光線に似ていることから《後光さん》の名でも親しまれている。

 ちなみに今月で三十キロメートルに達する京都の《天橋立(あまのはしだて)》は、サウジアラビアの《女神三塔》を除けば世界第一位だが、どちらも一般人は進入禁止。

 よって一般公開されている(しかも無料で)中で最も高いのはあの後光さんということになる。


《条件付きの世界一》


 それはもしかすると、この新宿という街の得意科目なのかもしれない。

 

 マグニチュード6.0の衝撃を七八%吸収する時代遅れの除震ウェーブシステム。

 氷河期対策としては最先端、しかし現時点ではニーズのない断熱皮膚開発。

 ナノマシンによる人工知能と人体の融合技術は世界各国で同時多発的に誕生したが、その着脱実験を最初に成功させたのは、この街の研究ラボだ。特許ごと中国に買収されなければ、日本の大きな輸出産業になっていただろう。

 


 神奈川から運ばれてきたタクシーがアームを伸ばし、手を振りながら去っていく。

 イリノイもその手に応じた。

 僕も手を振ったが、きっと彼女の目の前でなければやらなかったと思う。


 この街に行き交う人々達と同じように。


「先生、行くべ」


 イリノイが振り返って僕を手招く。

 VR圏内に入ったのだろう。その瞳に青いメタリックカラーの光が宿っていた。


 百メートル。

 五~二○メートル。

 三十センチ。

 時代の進行と反比例した歩行者の目線の距離。

 そして現代の象徴のようなこの街において、現実を見て歩いている者はいないに等しかった。


「僕が先に行く。イリノイは後ろから」

「裸眼で新宿を歩くなんて暗闇の中を進むみたいなもんだよ。ほら、ゴーゴー」


 温度の低い、汗ばんだ手の平。

 僕の手を掴んで、突っ込んでいく。


 愉快そうな手振りを繰り返す初老の杖突き。

 両手を叩きながら馬鹿笑いをして去っていく髪の色が一本一本違う若者。

 遊歩道で敵と戦う少年。相手は相当巨大なようだ。見上げる彼の顔の向きがそう物語っている。


 しかし僕には彼らの声は聞こえないし、彼らが話しかけている相手の姿も見えない。

それはまるで二十世紀の現代演劇を彷彿とさせる文字通りの超現実(シュールレアリズム)な風景だった。

 もちろん、青い瞳の彼らにとってはそうではないのだろうが。


「こっちこっち」


 透明な障害物を小刻みに避けながら通りを進む。

 物理的な何かがある訳ではないので、まっすぐ歩けばいいと思うのだが、ここは彼女に従った。

 そっちの世界のことについて門外漢の僕がとやかく口を出しても仕方がない。


 だからこそ、その中に入る時は僕も黙ってはいられなかった。


「イ、イリノイ。取り出す時の痛みは?」


 ナノストアの前で僕の心と踵にブレーキがかかる。


「は? 今から入れるのになぜ取り出す話すんの?」

「インフォームドコンセプトだよ。事前に知れることは全て知っておきたい」

「そんなあなたにクエスチョン。これまで食べたごはん、中身を理解して口に入れてましたか」

「それとこれとは別だと思うけど」

「いや同じだって。先生さー一人暮らしでしょ? 体の中、絶対添加物だらけだね」

「うるさいな。プライベートで何しようが構わないだろ」

「心配してあげてるんだって。だってノーナノのままだったら一世紀足らずで死んじゃうんだよ?」

「……一〇〇歳まで生きれば充分だよ」

「いやいやいやいや早死にはよくないよくない」


 背中を押す彼女の手。

 質問の解答は得られなかったが仕方ない。


「分かった分かったから」


 僕はイリノイの手から逃れると、自らストアの入り口に立った。

 不安は残るが、現実問題、調律たちと会うためにはアップデートは必須だ。

 それにどうせいつかこの日が来ることは承知していたのだし。


 背中を押すのは他人の手ではダメだ、自分の意志で。

 後悔を微塵も残さないためにも。


 僕は思い切って手を伸ばした。

 すると、予想もしていなかったことが起きた。

 内と外を隔てる扉が何の感触もなく僕の手を呑み込んだのだ。


 そんな反応を後ろで嬉しそうに見ている二つの青い瞳。

 僕を驚かせたのが自分の仕業だとでも思っているかのようだ。


「どうですか。それもナノの力ですぜ?」

「……全く。凄すぎて嫌になるよ、最近の技術は」

「いえいえ。この程度のこと昔からでございますからお客さん」

「それは《昔》の指す定義によるだろ」


 屁理屈だった。

 しかし、嫌味な発言もしたくなる。

 結局のところ、僕はまだ抵抗しているのだ。

 この身体に、自分よりも遥かに進化の進んだ異分子が入ってくることに。


 扉を通り過ぎる過程で、木目の変化を見た。


 その先に広がっていたのは爽快なまでに白い空間。

 直線すら排除され、まるで繭の中に入り込んだような感覚に包まれる。


 僕は部屋全体を見渡した。


「誰もいないな」

「『すみませーん、バージョンアップしたいんですけどー』って訊ねるつもりだった?」

「まあ、そうかな」

「常識が足りないね。メディカル分野に人が関わっちゃ危ないでしょうが」

「それはおかしいよ。あべこべだ」


 《医療》を作ったのは人間じゃないか。

 なのに、なぜ危ないなんて。

 そう思うのが自然な気がしたが、しかし結局はそれも周回遅れの常識か。

 

「でも人間ってミスるじゃん」


 イリノイがさらりと言う。


「それで、どうすればいい?」


 話題を変える。

 というのも、これ以上反論が思いつかなかった。

 

 

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