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第三話:ただいまと言える場所

新しい仲間を迎え、チヅルの家がさらに賑やかに。

孤独な道を歩んできた誰かの心が、温かい「ようこそ」の言葉でじんわりと溶けていく回です。

 一晩中走り続けた馬車は、朝日が昇る二刻ほど前に一度足を止め、十刻の休憩を挟んだ。再び動き始め、日が完全に落ちた頃に、ようやく港湾都市マーレンへと着いた。ギルドへの報告は翌日にすることにした。


 翡翠月の夜気は、春の瑞々しさを孕みながらも、夜の帳が下りれば適度な冷涼さで肌を撫でてくる。石畳を叩く蹄の音が規則正しく響き、ようやく見慣れた港湾都市の街並みが窓の外を流れていった。


 第633環の翡翠月、週三巡目の水律の夜。

 チヅル一行と、新しく仲間に加わった銀髪の美女レヴィリアは、ようやく自宅へと到着した。マーレンの住宅街にひっそりと佇むその借家は、冒険で疲れ果てた彼女たちを、無言の温もりで迎え入れているようだった。


 オーク材の扉を開け、リビングの天井に設置されている魔法灯に明かりを灯す。柔らかな光が部屋の隅々まで広がり、数日ぶりの「我が家」の情景を映し出した。


「ふぅ……。ようやく帰ってきたねぇ」


 チヅルは背負っていたなめし皮の軽装セットを床に置き、大きく伸びをした。

 神殿ギミックで五十八回もの術式を連続展開した代償は大きく、彼女の魔力回路は未だに熱を持ったような倦怠感を残している。ワインレッドの大きな瞳は眠たげに潤んでいたが、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。


 ラズベルが手慣れた足取りでレヴィリアをリビングの中央へと案内する。


「レヴィリアさん、どうぞこちらへ。とりあえずは、こちらでくつろいでいてくださいね」


 ラズベルの優しく包み込むような声に、レヴィリアはフード付きの外套を脱ぎ、銀色の長い髪をさらりと揺らした。


「ええ、ありがとう。……素敵な家ね」


 レヴィリアの紫の瞳が、機能的に整えられたリビングをゆっくりと見渡す。

 チヅルは、階段の麓で二階を見上げながら、レヴィリアの方を振り返った。


「レヴィ姉、あたしたち、ちょっと湯浴みしてくるから、待ってて! ずっと湯浴みしてなかったから、みんな泥だらけなんだよー」


 チヅルは、自分の薄紫色の猫耳が心なしかぺたりと寝ているのを気にしながら、ユイとラズベルを手招きした。三人は連れ立って、一階の奥にある浴場へと消えていった。


***


 一人、静まり返ったリビングに残されたレヴィリアは、ソファに深く身を沈めた。

 目を閉じ、深く息を吸い込む。

 そこには、三人の乙女たちが日常を営むことで生まれる、穏やかな生活の残り香があった。


(ここがチヅルたちの拠点というわけね。なぜだか、落ち着くわ……)


 レヴィリアは、自身の長い指先を見つめながら、遠い記憶を辿るように思考を巡らせた。


 魔界を離れ、このカルディアス大陸に流れ着いてから、凡そ十三環。

 彼女はこの広大な大陸を、ソロの冒険者として、あるいは一人の放浪者としてふらふらと渡り歩いてきた。

 当初の目的は、単なる好奇心だった。短命で、脆弱で、けれど驚くほど強欲で多様な「ヒト族」という存在が、どのような理で生きているのか。彼女は常に一歩引いた場所から、冷徹な観察者として彼らを見つめてきたのだ。


 時には気が向いて、窮地に陥った者たちに手を貸したこともある。

 その度に浴びせられる過剰なまでの感謝の言葉。それは、魔界の弱肉強食の理の中では決して味わえない、どこか奇妙で、それでいて決して悪い気分ではない温かな刺激だった。


 だからこそ、彼女は冒険者稼業を始めてみた。

 食い扶ちを稼ぐには十分すぎる報酬が得られたし、各地を巡る免罪符としても悪くない選択だった。

 現在のランクはB。実力だけで言えば、それ以上への昇格も容易だったが、あえてここで留まっている。Aランクともなれば国家辞令による強制依頼が舞い込むこともある。今の彼女にとって、それはただの煩わしい束縛でしかなかった。何より、目立ちすぎることは己の正体を晒すリスクを高める。


 冒険者として資金を得た後は、気まぐれでいくつかの事業にも手を出した。

 元々、サキュバスという種族は人の欲を読み解くことに長けている。商才があるという自負はあったが、結果は予想以上だった。この大陸の経済の隙間を縫うように展開した彼女の事業は成功を収め、今では当面遊んで暮らせるだけの資金が手元にある。


 自由。それこそが、彼女が魔界を捨ててまで手に入れたかったものだった。

 だというのに。


(……「あいつ」が、私を追ってここまでやってきたのは誤算だったわね)


 レヴィリアの眉間に、微かな不快感の皺が寄る。

 カルディアス大陸にまで伸びてきた魔界の影。本当にうっとおしい。いっそのこと、また別の、遥か遠い大陸にでも高跳びしようか――そんなことをぼんやりと考えていた矢先に、彼女はあの古代神殿跡で三人と出会ったのだ。


 特に、チヅル。

 あの娘は、見ていて飽きない。いや、飽きさせない。

 魔族である私の正体を初対面で、それもあんなに無邪気に暴いておきながら、「多様性を重んじる」などと言ってのける。


 あの小さな身体のどこに、あんなにも強固なメンタルが宿っているのか。

 次に彼女が何を見せてくれるのか。

 気づけば、高位魔族であるはずの自分が、あの混血種の猫耳娘が放つ輝きに、どうしようもなく魅了されてしまっている。


(ふふ……。サキュバスが魅了されるなんて、滑稽な話だわ)


 自嘲気味に微笑み、彼女はソファの背もたれに頭を預けた。

 魔界を追われた身。未練など一欠片もない。

 今はただ、この場所で、あの眩しい光の傍らで、安らかに自由を謳歌してみたい。

 そんな、柄にもない願いが胸の中に小さく芽生えているのを、彼女は静かに受け入れていた。


***


「レヴィ姉、待たせてごめんね!」


 パタパタと小気味よい足音がリビングに戻ってきた。

 湯浴みを終え、清潔なバスローブに身を包んだチヅルが、濡れた薄紫の髪をタオルで拭きながら現れた。その後ろから、同じくバスローブ姿のユイとラズベルが続く。


 ラズベルが、レヴィリアのために用意しておいた新しいバスローブを恭しく差し出した。


「あたしたち、だいぶ汚れていたから、先に湯浴みしちゃったけど、レヴィリアさんも湯浴みはいかがですか? とってもさっぱりしますよ」


 レヴィリアは立ち上がり、差し出された布地を指先でなぞった。


「そうね、それじゃあ、私もお言葉に甘えさせてもらうわ。ありがとう、ラズベル」


 ラズベルに案内され、レヴィリアが浴場へと向かっていく。

 リビングに残されたユイは、深々と椅子に腰掛け、天井を見上げて大きなため息を吐いた。


「はぁー……。やっぱ、フロはいいねぇ」


 その言葉に、隣で髪を乾かしていたチヅルが、不思議そうに小首をかしげた。


「フロ? ユイちゃん、それどういう意味?」


 ユイは一瞬だけきょとんとした顔になり、それから「しまった」というように頬を赤らめて苦笑いした。


「え、あぁ、なんでもない。あたしの故郷の言葉で、湯浴みのことだよ。つい出ちまった」


 チヅルはワインレッドの瞳を細め、いたずらっぽくユイを見つめる。


「ふふふ。ユイちゃんの故郷の言葉って、時々面白い響きが混ざるよね。フロ、か。なんだか温かそうな音だね」


 チヅルもそのまま椅子に腰を下ろし、心地よい疲労感に身を任せた。


「……疲れたねぇ、ユイちゃん。でも、楽しかったね」


「あぁ。……そうだな」


 ユイは目を閉じたまま、短く応じた。

 彼女の脳裏には、古代神殿で見たチヅルの背中が浮かんでいた。不敵に笑い、困難を奇策で突破していく小さなリーダー。その存在が、異世界から来たユイの心をどれほど救っているか。言葉にするのは気恥ずかしかったが、その「あぁ」という短い返事には、最大限の信頼が込められていた。


 その頃、キッチンではラズベルが手際よく火を起こしていた。

 トントンとリズム良く何かを刻む音。そして、熱したフライパンに生地を流し込む「じゅわぁっ」という小気味よい音がリビングまで届いてくる。


 やがて、バターの香ばしい香りと、バニラのような甘い匂いが家中に広がり始めた。


「はい、焼けたわよ」


 ラズベルの声に、チヅルが弾かれたように立ち上がった。


「わぁ、パンケーキ! ラズベルちゃんのパンケーキ、大好きなんだ!」


 チヅルはキッチンへ駆け寄り、棚から特製のベリージャムを取り出した。翡翠月ならではの、完熟した木の実を煮詰めた深紅のジャム。それを焼きたてのパンケーキの上に、これでもかというほどたっぷりとのせていく。


 三人がテーブルに腰掛けた頃、ちょうど湯浴みを終えたレヴィリアが戻ってきた。

 銀糸のような髪は湿り気を帯びて艶めき、透き通るような白い肌は湯気の熱でほんのりと桜色に上気している。バスローブ姿の彼女は、歩くたびに大人の色香を漂わせ、リビングの空気を一瞬で華やかに塗り替えた。


「あら、素敵な匂いね。何を焼いているのかしら?」


「ラズベルちゃん特製のパンケーキだよ! レヴィ姉も座って座って!」


 チヅルが隣の席を叩いて促す。

 ラズベルは、丁寧に淹れたハーブティーをレヴィリアの前に置いた。


「ハーブティーはいかがですか? 胃に優しくて、安眠の効果もあるんですよ」


「いただくわ」


 レヴィリアは優雅に頷き、湯気の立つカップを両手で包み込んだ。目を閉じ、立ち昇る香りをゆっくりと楽しんでから、一口喉を鳴らす。


「……落ち着く味ね。心が解けていくようだわ」


 四人がテーブルを囲む、遅い夕食が始まった。

 チヅルは頬いっぱいにパンケーキを詰め込み、モグモグと口を動かしながら、今日体験した不思議な出来事について話し始めた。


「それにしてもさ、あの地下空間、すごかったよね! あの古金貨、マリアさんに見せたらどんな顔するかなぁ。あと、あのエイス……なんとかっていう古文書! 文字は読めなかったけど、絶対すごい秘密が書いてあると思うんだよね!」


「チヅル、食べながら喋るなよ。行儀悪いぞ」


 ユイが呆れたように言いながらも、自分の分のパンケーキを小さく切って口に運ぶ。


「でも、あの恋文は余計だったわね。チヅルちゃん、顔を真っ赤にして読み上げちゃうんだもの。ふふっ、かわいかったわよ?」


「あうぅ……ラズベルちゃん、それはもう言わない約束だよぉ……」


 チヅルが耳まで赤くしてうつむくと、テーブルは温かな笑い声に包まれた。

 レヴィリアは、その喧騒を愛おしそうに見つめながら、静かにハーブティーを口に含んでいた。


 誰かとテーブルを囲む。

 他愛のない話で笑い合う。

 ただそれだけのことが、これほどまでに満ち足りた気持ちにさせてくれることを、彼女は忘れていたのかもしれない。


***


 一刻ほど雑談を交わした後、夜も深まってきたところでお開きとなった。

 チヅルは、レヴィリアに向かって二階を指差した。


「レヴィ姉、二階に部屋が三つ空いてるから、好きなところ選んでね」


「ありがとう。それじゃあ、見させてもらおうかしら」


 二階へ上がり、レヴィリアは迷うことなく一つの部屋を選んだ。

 それは階段を上がってすぐ右、チヅルの自室の向かいにある部屋だった。


「ここがいいわ。なんとなく、風通しが良さそうだから」


「うん、いいよ! じゃあ、今日からここがレヴィ姉の部屋ね」


 チヅルは満足げに頷き、自分の部屋の扉に手をかけた。


「それじゃあ、おやすみなさい。……あ、そうだ。レヴィ姉」


「なあに、チヅル?」


 振り返った美女に、チヅルは満面の笑みを向けた。


「あたしたちの家へ、ようこそ! 明日から、またよろしくね!」


 レヴィリアは一瞬だけ目を丸くし、それから、今までで一番柔らかい微笑みを浮かべた。


「ええ……。よろしくね、チヅル」


 扉が閉まり、廊下に静寂が戻る。

 窓の外には、翡翠月の淡い月明かりに照らされたマーレンの街並みが広がっている。


 かつての孤独な放浪者が、新しい居場所を見つけた夜。

 四人の女性たちが紡ぐ新しい物語の旋律が、夜の静寂の中に静かに響き始めていた。


ほっこりした夜も束の間 —— 次回、新生活初日のチヅルたちがギルドへ向かいます。

思わぬ出来事が待っているようで、目が離せません!

ありがとうございました!

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