1−7 隣の席
「え!?」拓斗は明らかに驚いた顔をする。「さすがにそこまでは想像してなかった。お前は歳上のお姉さんが好みだと思ってた。いかにも元気少女みたない東雲は眼中にないと思ってたよ」
「勘違いするなよ。今は違う。――というか、あれが恋だったかどうか、それも怪しいと思ってる」
「うーん、何か既視感。お前さ」拓斗は訝しむように悠真の目を覗き込む。「また『恋じゃない』か」
「恋なんて一時の気の迷いだよ。冷静な判断を鈍らせる。いいことなんてない」
「冷めてるな。さすがにちょっと引くぞ」
そう言いながらも拓斗はどこか嬉しそうだった。
「長話しちまったな。先生たちに怒られる前に帰るか」
拓斗の言葉に悠真も微笑みながら頷いた。
*
その日もカフェに寄ったが、中田さんはいなかった。新しく入ったらしい男性の店員からカフェオレを受け取ると、窓際の席に座った。
拓斗が「あんなこと」に恩を感じててくれたなんてな、気付かなかった。結構いいやつなのかもしれない。
悠真の親は成績が悪くても怒ったりはしないが、「高いお金を出して私立に通わせて」もらっているのは悠真も同じだ。無言の期待を感じないわけはない。
数学の問題集を開く。
問題をじーっと見つめる。三角形がいくつか組み合わさった図形。あーでもないこーでもないとノートに図を書くが、解法にたどり着かない。
「メネラウスの定理でいけるんじゃない?」
びくっとして振り返ると、宝箱を見つけた少女のような顔をした中田さんがいた。
改めて問題を見る。確かにそれでいける。はあ、そんな簡単な問題だったか。
「中田さん、頭もいいんですね」
中田さんは一瞬ぽかんとした後、
「そんなことないよ。私文学部だし」と言った。
「文学部でも数学できるなんて羨ましいです」
「たまたまだよ。チラっと見たらふと思い付いただけ」
「それが数学の才能なんですよ」
ふふっと笑いながら、中田さんは続ける。
「私に数学の才能はないよ。高校生の時に思い知らされた。――ところで堀田君、あと三十分くらいはいる?」
「うん、まあ」悠真は曖昧に返事をする。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「え、あ、はい!」
思わず大きな声になってしまった。たぶん、頬は赤くなっていただろう。
*
中田さんとバスターミナルを歩く。少し前までは考えられない光景だ。
もう三月になっていた。春とはいえ、まだ肌寒かったが、心はぽかぽかしてきた。
「中田さんは……その、いいんですか? 俺と一緒に帰ったりして」
「え? どうして?」
「彼氏さんに怒られたりしないのかなって」
「堀田君と帰ることで? 大丈夫だよ。彼はそんなこと気にしないから」
そんなこと。胸がきゅっと摑まれてたような感覚になる。
「私ね、一人っ子だし、部活とかも入ってなかったから、後輩とかもいたことがないの。なんか嬉しくてね」
「後輩、ですか」
「後輩でしょ? 中高一緒だし。白楓大附属中高」
「俺が一貫生だってよく分かりましたね。高校から入ったかもしれないのに」
「あー、それは」中田さんは逡巡するような表情を見せる。「さっきの数学の問題、授業進度からして高入生じゃなくて一貫生かなって」
「なるほど」
バス停に並ぶ。
「この位置なら」中田さんが足元を指差す。「今日はバス、座れそうだね」
初めてここで中田さんに話し掛けられた時のことを思い出す。
「前は俺だけ座れなかったんですよね」
「そんなこともあったね。ごめん、私だけ座っちゃって」そう言って中田さんははにかむ。
「いやいや、いいんですよ。気にしないでください。――あ、そう言えば」
そう言って、悠真はここ最近飲んだコーヒーの味を思い出す。
「カフェラテとカフェオレ、飲み比べてみました」
「お! さっそく。勉強熱心だね。どうだった?」
「カフェラテの方がミルク感が強くて、ほとんどホットミルクを飲んでいるような感じでした。そこに少し苦みを感じる、って感じで。カフェオレはミルクは入ってる感じはするんですけど、むしろコーヒーの苦味が強かったです。ちょっと意外でした。エスプレッソの方が苦いのかなって思ってたんで」
「面白い考察だね」中田さんは口角を上げて嬉しそうに話し出す。「確かにカフェラテはエスプレッソの苦みを抑えるためにミルクの比率が高くなってる。カフェオレは普通のドリップコーヒーがベースだからミルクの比率が低いことが多い。結果としてカフェラテの方が飲みやすくなるのかもね。まあ、うちのお店の比率がそうってだけかもしれないけどね。苦味の少ないカフェオレもあるよ」
バスが到着する。待っていた人たちが順にその中へと入っていく。
中田さんが先にバスに乗る。一人席の区画はまだ空いていたが、迷うことなく二人席に座り手招きをしてきた。悠真は一瞬ためらったが、中田さんの隣に座った。
バスが動き出すまでまだ時間があった。
「中田さんはコーヒーに詳しいんですね。当たり前かもしれないですけど」
「でもね、半年前にこのバイトを始めるまではそんなに詳しくなかったよ。コーヒー自体そんなに飲むわけでもなかったし」
「大学生ってみんなバイトしてるもんなんですか?」
「そうだと思うよ。――ああ、うちの高校、バイト禁止だもんね」
「バイトってどんなのがあるんですか?」
「飲食店は多いよね。居酒屋とかファミレスとかも」
「中田さんは、やっぱりカフェが似合ってると思います」
「そう?」中田さんは少し嬉しそうな顔をする。
「なんか、オシャレな感じがして」
「そっかあ。なんか、そう言われると嬉しいな」
微笑む中田さんを見て心臓の音が速くなるのを感じる。
バスのエンジンがかかる。
「でもねえ、実はカフェを選んだのには――」
バスが走り出す。エンジン音が大きくなる。
「――理由があってね」
中田さんの声がやや遠く聞こえる。
でもその後の中田さんの言葉はエンジン音にかき消されることなく悠真の心に突き刺さった。
「彼がコーヒー好きでね。それで詳しくなりたかったんだ」




