3−1 自分の気持ち
「中田、なんだ、この点数は?」
担任の宇佐美との二者面談。実莉が開口一番言われたのがこの言葉だった。
「特に数学。うちの中高の方針は知ってるよな」
「理数教育の重視」
「そうだ。中学のころから早めに数学の授業を進めて、大学受験の時に数学の力を高いレベルで完成させる。そのための中高一貫だ」
「私は……そのまま内部進学でいいです、大学も」
「あのな中田」宇佐美は軽く溜め息をついた。「お前の成績は中学のころから知ってる。どの教科もほぼ満点に近かった。でも高校に入った途端、数学の点数だけが下がり始めた。期待してたから言ってるんだ。何があった?」
「何もないですよ。単に……思い付かないんですよ、解き方が」
嫌な後味だけを残して教室を出た。
廊下で待っていた次の女子生徒がニヤニヤしながら実莉を見る。
「実莉ちゃん、面談はどんな話しされるの?」
この生徒は去年からずっと同じクラスの子。いつも私がクラス一位でこの子が二位だった。それが高校に入ってからは逆転していた。いや、逆転どころか、三位、四位……どんどん落ちていた。
中学のころから、テストのたびに「マウントの取り合い」が起こった。さっきの女の子がニヤニヤしていたのもそういうことだ。
その上……。
スマホが震える。開いてみると友人からのLINE。「〇〇って実莉と付き合ってるってほんと?」。その「〇〇」とは中学の一時期、確かに付き合っていたことはある。でももう何でもない。こういう話にいちいち反応するのが面倒で適当にあしらっていると、あることないこと噂される。本当に疲れた。
そんなことが続いた後の文化祭。
実莉は部活にも入っていなかったし、クラスの有志の活動にも加わっていなかったから、特にやることはなかった。
友人との笑顔の作り合いにも疲れて、一人で校内をうろついていた。
教室、校舎と校舎の間、体育館、いたるところで皆「はしゃいで」いた。焼きそば、チョコバナナ、軽音、カラオケ。
全てにうんざりして喧騒から離れた。校舎の脇の花壇の縁石に座って、家から持ってきたおにぎりを食べていた。
喧騒を遠目から眺め、はぁと大きな溜め息をついた時だ。
両手で焼きそばを大事そうに抱えた小学生の男の子がキョロキョロしながら歩いていた。年明けに受験をする六年生だろうか。
実莉と目が合った。
その男の子はとぼとぼと近付いてきて、「ここいいですか」と言った。
「ここ椅子でも何でもないけど、座りたければどうぞ」
ペコリと頭を下げて隣に座る。
焼きそばのパックの蓋が開く。ソースの美味しそうな匂いが実莉の鼻に届く。
チラっと男の子を見る。さっきの不安そうな顔とは打って変わって、無邪気な笑顔を見せていた。
麺をすする音がする。
「美味しそうだね」
「お姉ちゃん、食べたいの?」
「ううん、私はいい」
お姉ちゃん、か。くすぐったい響きだ。
男の子はまた食べ始める。
「附属中、受けるの?」
「うん」
「どうして受けるの?」
「どうして……? うーん分かんない。お姉ちゃんはなんで受けたの?」
「なんでだろ。親に勧められたからかな」
「僕もそんな感じだよ」
そんなもんだよなと思う。自分の意思で中学受験したいなんて小学生、普通はいないだろう。
「数学……算数は好き?」
「うん、まあ、嫌いじゃないかな」
紅生姜とキャベツを残してほとんど食べ終わったようだ。
「お姉ちゃんは算数嫌いなの?」
「嫌いじゃなかったんだけど、できなくなっちゃった。だから好きじゃない」
「できなくても好きなら好きでいいんじゃない?」
「でも、好きな人に冷たくされたらつらくない?」
「確かにそれは嫌だね」
そう言いながら、男の子は手に持ったビラを実莉に差し出した。
「お姉ちゃん、鶴折れる?」
「折れるけど、なんで?」
「いいから折って。僕できないから」
「正方形にするから切ってもいい?」
「うん、いいよ」
A4のコピー用紙で作られたどこかの出店のビラは、一分ほどで一羽の鶴になった。
「ありがと」そう言って男の子はその鶴をまた開き始めた。
「え? なんで?」
「ほら、見てみて」
正方形の紙には幾何学模様のような折り目がついていた。
「ここに手裏剣みたいな形があるでしょ、僕これ好きなんだ」
小学生らしくてかわいいなと実莉は思う。
「折り紙ってことは」男の子はその紙を半分に折って三角形にする。「ここは45度だよね」
「そうなるね」
「さらに折ると22.5度、さらに折ると11.25度。こういう縛りの中でこの模様はできるんだ」
急に小学生っぽくなくなった。中学受験するような子は――私も含めてだけど――どこか変なこだわりがある。
「これも算数だとするなら、僕は算数が好き」
この子、頭がいいだけじゃない。
「お姉ちゃんは、神様を信じる?」
「いてほしいとは思うけど、信じられないかな」
「僕も同じ感じかな。でもさ、神様がいてもいなくても、人間がいてもいなくても、1+1=2なんだ。すごいことだと思わない?」
「概念は変わらないからね」
「ガイネン?」
概念という言葉を知らないのか、チグハグすぎて面白い。
「好きなら好きでいいんじゃないかな。でももしお姉ちゃんがつらいって感じたなら離れればいい」
「結局どっちなの?」
「うーん、自分の気持ちを大事にしたらいいんじゃないかなってこと」
「君……本当に小学生?」
「僕は当たり前のことを言ってるだけだよ」
確かに。この子が深いこと言ってるように聞こえたなら、それは私自身がそうさせたってことなのかもしれない。
鏡、か。
「自分の気持ちを大事に、か。少し元気出たよ。ありがとね。――あ、そうだ。チラシもう一枚もらっていい?」
「うん」
実莉は、首が三つある鶴を数分で折り上げた。
「何これ!? かっこいい!」
「いい反応だね。やっぱり男の子はこういうの好きだよね」
「これ正方形から作ったんだよね? ハサミも使ってない。どうしてこうなるの?」
実莉は出来上がった折り紙を途中まで元に戻す。
「ほらここで正方形が二つできるでしょ。角が増えるわけ。それがそのまま首になる」
「これ、紙に戻していい?」
「うん、いいけど」
男の子は正方形に戻った紙をじっと見つめている。付けられた折り目を見てうっとりとしている。
「もう一回作ってもらっていい? これで」
もう一枚のチラシで同じように作る。
「お姉ちゃん、これもらってもいい?」
「うん、もちろん」
その時、少し離れたところから女性の呼び声が聞こえた。
「ゆうちゃん、帰るよー!」
男の子は実莉に向き直り、
「じゃあ僕帰るね」と言った。
「うん、なんか、ありがとね。元気出た。受かるといいね」
「うん、頑張る」
実莉は、母親のもとへと走っていく小さな少年の後ろ姿を見送りながら、また会えたらいいな、と思った。
*
実莉がこの店で働き始めたばかりのころ、下げ口に置かれたトレーの上に何かが乗っていることに気付いた。
小さな小さな折り鶴。レシートの端で折ったものだろう。しかし通常より一回り小さい。よく見ると首が三つあった。
反射的にトレーを置いた客を目で追っていた。それは白楓大附属高校のブレザーを着た男の子だった。




