3−2 タイムスリップ
七月の下旬。夏と言うには雨が多過ぎる時期。日によってはまだ肌寒い。
「ねえ悠真君」
実莉はベランダから雨の降る外を眺めていた。
「何ですか、実莉さん」部室の中から悠真の声が聞こえる。
実莉はベランダから部屋の中に入りながら続けた。
「人の気持ちって、何なんだろうね」
悠真が顔を上げる。
「それは……すいません、どういう意味でしょう?」
「分かんない。何となく言ってみただけ」実莉は悠真の隣に座る。
バタンと扉が閉まる音がする。
「え? 誰?」
入ってきたのは活発そうで、とても可愛らしい女の子だった。怪訝な表情で見つめてくる。
「堀田君、生徒会じゃない人をこの部屋に入れないでよ。……あ! 前いた人!?」
「バレてますよ、実莉さん。あ、こいつが東雲です」
「こんにちは東雲さん。——いやあ、悠真君がどんな高校生活を送ってるのか見てみたくなってね」
「だからって制服姿で潜入はやりすぎじゃないですか」
「なんかワクワクするじゃん」
「あのう」花蓮は腕組みをしながら仁王立ちになっている。「ほんとにどなたですか?」
「えーっとその……」
実莉が悠真をちらっと見ると、悠真がボソッと「特別な絆がある人」と言う。
「それってつまり――」花蓮の声に、実莉が言葉をかぶせる。
「友達以上、恋人《《以下》》の関係ってこと!――行こ! 悠真君」
そう言って実莉は悠真の手を摑んで生徒会室の外へ連れ出した。
*
「ちょっと、実莉さん、どこに行くんですか?」
「ちょっとそのへん。適当に歩きたい」
「それ、楽しいんですか?」
「楽しいよ。高校生に戻ったみたいで。どう? 私の制服姿」と言ってクルッと回ってみせた。
21歳で制服というのも少し無理がある気もするが……。でも、もじもじしている悠真君を見るのが楽しい。
「に、似合ってます」
「まだまだ行けるかな?」
「はい……」
実莉は上機嫌になり、ひひっと笑った。
一年生のフロア、二年生のフロア、三年生のフロアと順に回っていく。
「懐かしいなあ。いろんなことがあったな。例えば廊下のここ」と言って実莉はラミネートされたポスターをめくった。
「あ、へこんでる、よく知ってますね、そんなの」
「そりゃそうだよ、このへこみ作ったの私だから」
「実莉さん、どんな高校生だったんですか……?」
「遅刻しそうになって、走ってたら転びそうになってぶつかっただけだよ。わざとじゃないよ。――あ!」
実莉は慌てて悠真の手を引っ張って走り出した。
「どうしたんですか?」
「宇佐美がいた」
「宇佐美先生?」
「高一の時の担任。まだいたんだ」
昇降口に着く。二人は息が上がっていた。
呼吸を整えながら傘を差して外へ出る。
「今の文化祭ってどんな感じ?」
「俺も積極的に参加する方ではないから詳しくは分からないけど、出店がいっぱい出てますね。焼きそばとかフランクフルトとか。あと射的とかカフェとか」
少し歩いたところで花壇の植え込みを見つける。実莉はその縁石を見て何かを思い出す。
確かここに私は座っていた。
今は雨に濡れているので座れない。傘を差したまましゃがんでみる。
そうだ、こんな視界だった。
「ゆうちゃん……」自然と呟いていた。
「え?」
「ううん、何でもない」
宇佐美、数学、二者面談、マウント、おにぎり。
断片的な記憶が光っては消え、光っては消える。
「ねえ悠真君」
「ん?」
「45、22.5、11.25、これ何?」
何かが思い出せそうなのだが、決定的な何かが出てこない。
「角度?」
「角度……」実莉は繰り返す。
「あ、折り紙かな。角を折っていくと、角度がそうなります」
「折り紙!」
封じられていた箱が開いたようだった。
心の底にしまわれていた記憶が蘇る。
「悠真君、首が三つの鶴、折れる?」
ハッとして悠真はポケットに入れていた生徒手帳を出す。そこに挟まれていたものを取り出す。
「これのことですか? なら折れます。何度も練習しましたから」
悠真の手に乗っていたのは古びた三つ首の鶴だった。羽根部分には「美味しい」「バナナ」「来てね」の文字が読み取れる。
「それ……どこで……」
「中学受験をする時に知らないお姉さんにもらったんです。記憶が曖昧なんだけど、すごく優しい人でした。その時もらったこの折り紙が受験のお守り代わりになった。いつかお礼を言いたくてずっと持ってます。でも、名前も学年も分からなくて、今も会えていない」
途端に実莉は笑い出した。
全てを思い出した。
どうして今まで忘れていたんだろう。
「そのお姉さんって、数学が好きだけどできなくなったとかボヤいてなかった?」
「言ってた、かも」
「その時の悠真君って、鶴の折り紙を広げた時の手裏剣の形が好きじゃなかった?」
「え? なんでそれを?」
実莉は笑いが止まらなくなった。
発作が遠のき、やっとのことで実莉は言葉を発した。
「今お礼を言っていいよ。『三つ首の鶴をくれてありがとう。お陰で附属中に受かったよ』って」
「もしかして……」
「そう、その『優しいお姉さん』は私だよ」
悠真は固まっている。しばしの沈黙。
「実莉さん」
「はい」
「ありがとう。あのころの記憶は曖昧だけど、受験勉強が辛かったのは覚えてます。でもこの鶴を見ては、あのお姉さんに会いたいって思って、頑張ることができたんです。結局中高では会えなかったんだけど」
「でも、ちゃんと会えたね」
「うん。どうしてあの店に通っていたのかその理由も分かった気がします。心のどこかで分かってたからなんじゃないかな。あのお姉さんが近くにいるって。ずっと実莉さんに会いたかったんだ」
どうして忘れていたのか、分かった。忘れたい記憶の中に埋もれていたんだ。でも、今なら思い出せる。そして、その時の気持ちにも向き合うことができる。
「私こそ、お礼を言いたい。あの男の子は、塞ぎ込んでいた私の心を救い出してくれた。また笑えるようにしてくれたのは、悠真君だった」
実莉が微笑み、悠真からも笑みがこぼれる。
「私の笑顔を引き出してくれたのは悠真君だった」




