1−10 研究テーマ
帰りの地下鉄の中。
吊り革を摑んで中田さんと並んで立つ。
「俺からも訊いていいですか?」
「うん、何?」
「彼氏さんってどんな人ですか? 中田さんはどんな人が好きなのかなって」
「そうだなあ」窓の方を見ながら少し考える素振りをする。「ゼミの先輩でね。大学院生なの。ちょっと知的な感じでね。静かな人なんだけど、それもまたいいっていうか」
「コーヒーが好きなんでしたっけ」
「そうそう。いつもブラックで飲んでる。時にはエスプレッソも」
「なんか、歳上の男性って感じですね」
「ふふ、確かにね」
中田さんの好きな男性。興味がないわけじゃない。でもなんだかこれ以上聞きたくないと思ってしまった。
「そう言えば、ゼミってどんなことするんですか?」
「比較歴史学。西洋と東洋と、あと日本史も。歴史全般かな」
「歴史系だったんですね。文芸部だから文学系かと思ってました」
「あー、バレちゃったか」
「やっぱり、コーヒー目当て?」
はにかみながら中田さんは怒られた子供のような表情をする。
「中田さん、そういう顔もするんですね」
「へ? そんな顔?」
「ほら、俺にとって中田さんは」指を折って数えてみる。「四つ上でしょ? 大人の女性って感じだから」
中田さんはふふっと軽く笑う。
「大人って何だろうね。私はただの大学生だよ。ほら、小学校の頃、中学生のお姉さんたちが大きく見えたでしょ? でも高校生になると、中学生は子供に見える」
「じゃあ、大学生も?」
「そうなんじゃないかな。きっと私も子供みたいなもんだよ」
「でも……『大人』の人たちがどう思っても、今の俺には、カフェで働く中田さんは――」目を上げて中田さんを見る。「かっこいいです」
中田さんは少し驚いたような顔をして、
「そか、ありがとね。少し元気出たよ」と言って微笑んだ。
*
駅に着く。
「中田さんはバイトですか?」
「うん」
「俺は、今日は帰りますね。美味しいコーヒーも飲めたし」
「そっか。気を付けてね」
「それと、もし良かったら、なんですけど……」
悠真は俯いて言い淀む。
「ん?」
「あの、今度、彼氏さんに会わせてもらえませんか?」
「構わないけど、どうかしたの?」
「大人の男性ってどんな人なんだろうって。ちょっと話してみたくて」
中田さんはニコッと笑う。
「そっか、堀田君って意外に積極的なんだね」
「恋は……奥手ですけど」
「そうなの? 結構行動派なのかもしれないよ」
そうなのかな? と少し不思議な気持ちになる。
「じゃあ、本人に訊いてみるね。分かったら連絡する」
「はい。ありがとうございます」
エスカレーター前で別れた。
*
翌日の放課後、大学側の食堂に向かった。入口近くの座席に中田さんと彼氏さんは隣り合わせで座っていた。とても距離が近い……ように見えた。
ガタッと音を立てて中田さんが立ち上がる。
「堀田君、こっちだよー!」と言って手を振る。
隣に座る彼氏さんは静かに微笑んでいた。
「初めまして。附属高校の堀田悠真です」
「こんにちは。院生の沢屋貴久といいます」
悠真は立ったままペコリと礼をする。
「まあ、座って」沢屋さんが促す。
悠真が座る姿を沢屋さんは目で追っている。
「実莉からよく話は聞いてるよ」
実莉。一瞬それが中田さんのことだと気付くのが遅れた。そうか、そうだよな。恋人だもんな。
「俺の話をするんですか?」
「うん。同じ団地に住んでいて、バスやバイトで一緒になるって。なかなか賢い子だって」
一瞬中田さんを見る。ただ微笑んでいる。
「いえ、全然賢くないです。いつも順位は半分より後ろの方だし」
沢屋さんは静かな笑顔をたたえていた。後輩に向ける静かな応援、そんな感じがした。優しい人なのが分かる。
少しの沈黙。
「そう言えば、沢屋さんはコーヒー好きなんですか」
「そうだね」
そこで 沢屋さんの手元にコーヒーの入った紙コップが置いてあるのに気付いた。
「やっぱりブラックなんですね」
「甘いのが苦手でね。ほとんどお茶みたいな感覚で飲んでる」
「好きな豆の種類とかありますか?」
「お、もしかしてコーヒー好きなのかな?」
「最近飲み始めたんです。産地とかは詳しくないんですけど」
「僕はケニアとか好きだけど、最近飲み始めたのなら、ブラジル、コロンビアあたりがお勧めだよ。苦味と酸味のバランスがちょうどいい」
「さすがですね。今度試してみます」
沢屋さんは静かだがとても人当たりの良い人という印象だ。落ち着いている。でも心の中がよく見えない。これが大人ということなのだろうか。
「沢屋さんは、その、大学院でどんなことを勉強してるんですか」
「僕の研究テーマは国家財政についてかな。『財政破綻と政治変動の比較』ってタイトル。特に日本とフランス――江戸後期とフランス革命前夜の比較をしている」
「……なんか、すごそうです」
その時、中田さんの顔が目に入った。何か言いたそうに見える。
「中田さんは――」
「あ、私の卒論テーマ、聞きたい?」
「まだ何も訊いてないですけど」
悠真のはにかみを受け取って中田さんが続ける。
「私はね、『恋愛観の比較と近代文学』。面白そうでしょ」
それまで静かにしていた沢屋さんがははっと少し笑った。
「実莉らしいな。面白いテーマだとは思うけど、ゼミは『比較歴史学』だからね。文学にまで踏み込むとちょっと逸れるかなって気はする。まあ、学部の卒論ならそのくらいがいいのかもしれないけど」
「別にいいじゃーん。ちゃんと歴史を比較してるよ。それにこれを選んだのには――」
「分かった分かった。教授がいいって言ったなら俺は口出ししないよ」
中田さんは少し不満そうだ。
「そう言う貴さんはどうしてそのテーマにしたの?」
「一応それなりの『建前』はあるけどね、『本音』を言うと就活だよ。単に歴史を比較するだけだと、学問論争してるだけに聞こえる。『キリスト教とイスラム教の宗派対立の変遷』に詳しくなっても実社会じゃ使わないだろう。でも財政の話ならどこにでも通用する」
これも大人ということなのだろうか。
「沢屋さんはいろいろ考えているんですね。勉強になります」
「どうせ、私は何も考えてないですよ」
中田さんがふてくされる。
「俺はそんなこと言ってないですよ。ただ沢屋さんの考えが深くてすごいなって思っただけです」
そこで沢屋さんが自分の時計を見る。
「すまない。そろそろ行かないと。教授と打ち合わせの予定だったんだ」
慌てて悠真は立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「忙しい中、ありがとうございました」
「今後とも、よろしくね」
沢屋さんは微笑むと、軽く手を挙げて食堂から出ていった。
「実莉さん、今日はありがとうございました」
「『実莉さん』?」
中田さんが少し驚く。
「なんか、羨ましくなっちゃって。そう呼んじゃダメですか?」
中田さんはふふっと笑い、「いいよ」と言う。
「さっき、何か言いかけてませんでしたか? 卒論テーマを選んだ……理由?」
「ああ。訊いてくれるの?」
「はい。『恋愛観の比較と近代文学』でしたっけ」
「お、ちゃんと聞いててくれたんだね」
「もちろんです。俺にとって実莉さんは『かっこいい』人ですから」
「ありがと」ニコッとして続ける。「森鷗外の『舞姫』って読んだことある?」
「……ない、です。文学には疎くて」
「『石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり』」
「古文ですか?」
「文体はね。でも書かれたのは明治時代。鷗外自身の私小説だって言われてる。太田豊太郎は国の命令でドイツに留学するんだけど、そこでエリスっていう女性と恋に落ちる」
「恋愛小説なんですね」
「うん。でもそこで――あ、結末を言ってしまってもいい?」
「はい。難しそうなので。というか、実莉さんの口から聞きたいです」
「オッケー。結論から言うと、親友の相沢にその恋を止められてしまうの。『官命で留学してるのに、勉学を疎かにして堕落して何やってる』って。それで、妊娠したエリスを置き去りにして日本に戻ってしまう」
「ひどい、話ですね」
「これ、誰が悪かったと思う?」
「それはもちろん、相沢です。人の恋愛に首を突っ込んで、まして引き離すなんて」
「でもね、豊太郎は超エリートなの。国の命令で留学なんて当時としては将来を約束されたようなもの。それを一時の気の迷いで棒に振ってしまうのは豊太郎のためにならない。相沢は当時としては決して悪じゃない。むしろ友のことを思ういい友人なの」
「でもエリスは……。じゃあ悪いのは豊太郎ですか?」
「一貫していない彼の行動にも問題はあるけど、あえて言うなら――」
中田さんは少し俯き加減になる。悠真はその目をじっと見つめる。
「あえて言うなら」中田さんは目を上げる。『時代』のせい。誰も悪くない。時代が生んだ悲劇」
一瞬心臓を鷲掴みされたような感覚になった。もし自分が豊太郎だったら。
中田さんの丸く大きな目がそこにある。逸らすことができない。
もしその時代に居合わせていたら、自分はエリスを捨てて日本に帰るだろうか。時代の圧力に抗うことができるだろうか。
「――という解釈もあるってことなんだけど。だからね、恋愛観って時代と場所によってどう変わっていったんだろうって興味持ったんだよね。それを調べてみたくなったの」
「実莉さん」中田さんをじっと見つめる。
「ん?」
「とても深いです。俺はその研究好きです。卒論出来上がったら読んでみたいです」
中田さんは驚いた表情のまま固まっている。
少しして表情を解き、ニコッと笑う。
「ありがと。できたら最初に見せるね。悠真君」




