正尊 3
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翌日、田中と大倉は『船弁慶』を観るため、真島能楽堂へ向かった。
二人の座席は前回『道成寺』を観た時と同じ場所だった。大倉は山口に見張られている気がして眉を顰めた。
前の席の客たちがひそひそと話し始めた。メインの演目は『船弁慶』だが、予定されていた狂言『附子』の次に、急遽『橋弁慶』が追加されたらしい。
大倉は入場時にもらったチラシを取り出した。――印刷されている演目は『附子』と『船弁慶』だけだった。
「俺らのために、わざわざプログラムを変えたんやな……」
大倉は目を細めた。
「『橋弁慶』って『船弁慶』と同じものだと思ってました」
「お二人、あまりお能をご存じないみたいですね」
隣に座っていた着物のマダムが、にこやかに声をかけてきた。
「勉強中です……」
田中は恥ずかしそうに答えた。
「お能では、プログラムのことを『番組』と言います」
「番組ですか……」
田中が呟くと、大倉は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「『橋弁慶』は、五条大橋での弁慶と牛若丸の初対面を描いたお話です。弁慶がシテ、牛若丸が子方で、ワキはほとんど出ません。短い演目なので、弁慶と牛若丸の舞が中心に披露されます。――弁慶は直面の慶之助さんで、私の推しです」
マダムは背筋を伸ばし、慶之助を褒めた。
「直面?」
「面をかけないって意味です」
大倉の問いに、田中が説明した。
二人の視線の先に、山口が秘書の春日を連れて会場に入ってきた。
大倉たちに気づいた山口は、遠くから軽く会釈した。
田中は会釈を返し、声をかけた。
「大倉さん、今日は寝ないでくださいね」
「誰が寝るか――今日は山口をじっくり観察させてもらうわ」
客席の照明が落ち、短い狂言『附子』が演じられた。休憩を挟み、続いて『橋弁慶』が始まった。
弁慶役の慶之助は直面で舞台に立ち、堂々たる体躯で長刀を握った。
素顔の慶之助に観客からため息が漏れ、田中の隣のマダムも息を呑んで見つめていた。
鏡板の前に正座する四人の地謡の声が、二人の動きを幽玄に引き立てた。
子方の義経(牛若丸)は白い被衣を両手に掲げ、顔をすっぽり隠して舞台に現れた。まだあどけなさが残る姿で弁慶に向かって舞い始めるが、緊張のせいか手が震え、足取りもぎこちなく、呼吸も乱れがちだった。舞のリズムは揺れ、観客席からも息を呑む声が漏れた。
舞台上の緊張が頂点に達した時、後見座から様子を見守っていた葵は、流れを見極めるように立ち上がった。背後に回って被衣を受け取ると、舞台の気配を乱さぬ自然な所作で、子方をそっと切戸口へ導いた。
会場の空気が一瞬で変わった。
白い被衣を手に子方の代わりに舞い始める葵に、視線が一斉に注がれた。
一連の流れに田中は息を呑んだ。いや、大倉以外の観客も皆、葵の舞から目を離せなかった。
――いったい何が起こっとるんや?
大倉は舞台よりも客席の様子に目を向けゾッとした。
弁慶役の慶之助は初めから知っていたかのように葵と呼吸をぴたりと合わせていた。二人の舞は美しく、同時に不気味さを帯びていた。
弁慶が膝をつき、被衣を拾い上げて義経の肩にかけた。その動きには主君としての忠誠心と、腹違いの弟である葵への深い尊敬が込められているかのように見えた。
二人の関係を知る客席からは涙を拭う者もいた。
田中も目を奪われながら見守ったが、大倉の視線を感じてすぐに刑事の顔に戻った。
大倉が舞台に視線を戻すと、山口は二人を見つめながら満面の笑みを浮かべていた。
――やっぱり山口のお気に入りは葵やな。
大倉はフッと笑い、目を細めた。
警視庁に戻った大倉はすぐに鑑識へ向かった。
「どや、防犯カメラの映像は確認できたか?」
大倉が声をかけると、鑑識の新庄(40)が手元のモニターから顔を上げた。
「……録画データは一週間で上書きされる仕様だから、残念だけど残ってないね」
新庄は悔しそうに言った。
事件発生から三週間。令状が出るまでに要した日数を思えば当然の結果だった。
「録画データが消えるまで時間稼いだんやな……」
「大倉さん、能楽はどうでした?」
「なんや、新庄。能に興味あんのか?」
「全然ですね。昔、妻と一緒に観に行ったんですが、寝てしまいました。タダでも行きたくないですね」
「せやけどな。今日はタダで観に行って犯人がやっと分かったわ」
「それはよかったですね」
新庄は驚いた。
「ああ……。今からとことん攻めたんねん」
大倉は行方不明の透馬を思いながら心に誓った。
捜査一課に戻り、大倉は成田の横に腰を下ろした。
「おかえりなさい」
「ああ……。成田、なんかおかしい部屋は見つかったか?」
「ええ、ありましたよ。大倉さんのお友達が指摘した部屋が……」
「ほんまか!」
「はい。――ホテルの客室が満室でも、ほとんど予約を入れない部屋が二部屋ありました。坂本さんがおっしゃった通り、そばにリネン室があり、地下直結のリネン用エレベーターがあります」
「その部屋、今から見に行くで!」
大倉は張り切って言った。




