定家 4
4
――あの日のことが、田中の脳裏に甦った。
山口に呼ばれて能楽堂に入り、二人だけで能舞台に上がった。山口はピアノを奏でるように鏡板のカラクリを田中の前で披露した。その仕掛けに驚き、地下にある『覗いてはいけない部屋』に連れて行かれた。
山口は突然、隠し持っていた包丁を向けて――ある話を始めた。
「田中さん、山口さんを殺害する前に、何を言われましたか?」
「何も……何も言われていません」
田中は信濃を見つめて答えた。
「ですが、隠しカメラの映像には――山口さんの発言に激怒した田中さんが、包丁を奪って襲いかかる様子がはっきりと映っていました」
取り調べ室には、田中の呼吸だけが響いていた。
「山口さんに、何を言われたのですか?」
「……何も言われていません」
田中は目を逸らした。
「分かりました……。では葵さんの話に戻ります。――田中さん、葵さんと身体を重ねましたか?」
その問いに田中は一瞬顔を歪めたが、すぐに言った。
「信濃さんはどうなんですか?」
「私ですか?」
「成田さんと身体を重ねましたか?」
田中は成田が見ているであろうマジックミラーに目を向けて、フッと笑った。
「私と成田さんのことが気になりますか?」
信濃は表情を変えなかった。
「ええ」
返事は軽く、興味がない様子だった。
「成田さんとは……」
そう言いかけて、信濃は田中の耳元へ身を寄せると何かを囁いた。
捜査官たちは思わず聞き耳を立てたが――その声は完全に遮られていた。
当の成田はどこか気恥ずかしそうに視線を落とした。
二人の関係を聞くと、田中はゲラゲラと笑った。下品な笑い声がしばらく取り調べ室の空気を汚すように響いた。
「田中さん、私たちの関係を気に入ってもらえてよかったです」
信濃は素の顔になった。
「では改めてお聞きします。葵さんと身体の関係はありましたか?」
「……ご想像にお任せします」
田中は笑いを止め、真っすぐ信濃を見つめた。
「分かりました……。では、葵さんの逮捕に協力していただけますか?」
「なぜですか? 葵さんは何もしていませんよ」
「葵さんはかわいそうな人です。山口さんや田中さんが守ってあげたいと思う気持ちは痛いほど分かります。――真島家に復讐するために、何人もの人が犠牲になっているんです」
「犠牲って……大げさな……」
「田中さん、葵さんを本当に守りたいなら……過ちを正してあげるべきじゃないですか? 大倉さんはそれをしようとして……あなたに殺された」
大倉の名前を聞いて田中は口を閉ざした。
「大倉さんと三人で大阪へ向かう新幹線の中で、田中さんは私に『困っている人を助けたいから刑事になった』と言いましたね。その困っている人は葵さんのことです。――一緒に助けませんか?」
信濃の言葉に田中は一瞬気持ちが揺らいだが、すぐに目を伏せた。
「もう何も言いません。黙秘します」
信濃も言葉を続けなかった。
取り調べ室の空気が重く沈んでいった。
これ以上踏み込んでも答えは引き出せないと信濃は悟った。
「分かりました……。では最後に一つだけ言わせてください」
「はい……」
田中はため息を漏らしつつも、どこか吹っ切れた表情で見上げた。
「山口さんのシナリオでは、田中さんに刺されて、あの鉄椅子に腰掛けて息を引き取るつもりでした。それは最後の芸術作品『少年たちを鑑賞する』という構図です。田中さん、あなたはそれを台無しにしました」
「はぁ?」
「あなたは山口さんを椅子から引きずり下ろし、その椅子に座った……」
信濃の迫力に田中は目を見開いた。
「山口さんの犯行は許されるものではありません。ですが――」
田中にしか聞こえないように「全てが芸術的で美しかった……」と囁いた。
「最低……」
「一方、田中さん、あなたの犯行は……」
田中の耳元に身を寄せて低く言い放った。
「雑」
「はぁ?」
田中は下から信濃を睨み上げた。
「だから犯人だってバレたんですよ」
フッと笑って小バカにした。
「信濃! ぶっ殺す!」
田中が掴みかかろうとしたが、成田が入って来て止めた。
「信濃さん……」
成田は呆れて注意した。
「はい、もう行きます」
信濃は立ち上がり、背筋を正してから微笑みを浮かべて言った。
「田中さん、さようなら。――生きる糧もなく刑務所で過ごす日々はお辛いでしょうが、どうかお元気で」
そのまま深く頭を下げ、振り返ることなく舞台を去る役者のように取り調べ室を後にした。
信濃が去った扉を田中はしばらく睨みつけていた。
――生きる糧がない? 冗談じゃない……。
怒りで肩が震えていたが、呼吸を整えて両目を閉じた。
思い出すのはあの日、大倉と共に初めて真島家を訪れた雨の日のことだった。葵と二人きりになった時、雷鳴が轟き、突然停電になった。闇が全てを奪った瞬間、左手に葵の手がそっと触れた。その冷たさの奥に確かな温もりがあった。――守りたいと強く思った。
目を閉じたまま、取り調べ室の机の下で左手に右手をゆっくりと重ねた。
――あの時からずっとこの手を守ってきた。誰に何と言われようと間違っていない。私はガリガリの子猫を守った……。
ゆっくりと息を吐き、田中は満足そうに両目を開けた。




