定家 3
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取調室で、信濃は背筋を伸ばし、田中の正面に座っていた。
二人はしばらく無言のまま視線を交わしていたが、田中が先に耐えかねた。
「いつまで黙っているつもりですか?」
「私は田中さんに呼ばれて、ここに座っているだけです。話したいことがあるなら、お先にどうぞ」
「いつもみたいに、聞きたくないことをベラベラ話してくれても構わないのに」
嫌味を込めて言った。
「そうですか……。では、こちらから……」
「何ですか?」
「なぜ、薫さんを刺したのですか?」
信濃の問いに、田中はフッと笑った。
「あいつのこと、大っ嫌いだったから……特に、あいつの目……」
「薫さんの目。鋭いですよね。――全部、見透かしているみたいで。私も、見透かされました」
「ほんと、気持ち悪い目……。でも、殺しそこねた。それが、今一番の後悔かな」
田中は軽い調子で言った。
「残念でしたね。――では次に、なぜラクロワの香水をつけて犯行に及んだのですか?」
「香水? そんなもの、つけていません」
「いいえ。薫さんは、その匂いで田中さんが犯人だと気づいたんですよ」
信濃は田中の内側を探るように見つめた。
「その目……あいつと同じ……」
田中は睨み返した。
「光栄です」
「気持ち悪い」
「ラクロワの香水は、葵さんの母親、条美さんが好んで使っていたそうです」
信濃は何かを思い出したように口元を緩めた。
「何? その気持ち悪い思い出し笑い」
「お伝えし忘れていましたが……葵さんと一緒に暮らしていた京都の渡辺さんが、私の顔を見てこう言ったんです。『条美さんに似ている』と……」
「えっ?」
「それで思いつきました。――葵さんに会いに行く時に、条美さんのような化粧をしたらどうなるかと……」
田中はハッとして問い返した。
「会いに行ったんですか?」
「いいえ、まだ……」
「……そう」
田中は安堵したように視線を落とした。
「香水をつけて犯行に及んだのは、条美さんになったつもりだったんですね」
「違う……」
「息子を守りたい一心だった」
「違う」
「もし、私が犯人だったら――」
「その言い方、大嫌い」
田中が遮った。
「分かっています。ですが、聞いてください。――私が犯人なら葵さんのために、母親になったつもりで、ラクロワの香水をつけて確実に薫さんを仕留めます」
その言葉に、田中はフッと笑った。
二人はしばらく互いの呼吸を測るように視線を交わした。
「そろそろ、葵さんの話をしましょうか……」
信濃の問いに、田中は目を逸らした。
「真島能楽堂で『黒塚』を観た時――私の座席からは、葵さんを見つめる田中さんの姿が見えました。能の舞台では、常に夜や闇が重要な背景として描かれます。『黒塚』でも老女の正体が鬼だと明かされる場面は夜で、闇が大きな転換点となっています。その中で語られる『月の光が闇』は、照らされる月の光によって、かえって隠されていた恐怖や真実が露わになるという逆説を表しています」
「信濃さん、何を言いたいのですか?」
「月の光は希望や安らぎの象徴でありながら、同時に鬼女の正体や人骨の山といった深い闇の本質を浮かび上がらせる役割も持っています。光があるからこそ、隠れていた闇が鮮明に見えてしまうのです。離れた私の席から見た田中さんの葵さんへの視線は月の光のように、その闇を容赦なく照らしていました。――葵さんはその視線の先に潜む暗闇を巧みに操り、田中さんを自らの意思とは別の道へと導いたのです」
「私は操られていません」
「田中さん、葵さんは危険です」
「葵さんは危険ではありません! 誘拐された少年たちは、全て山口がしたことです!」
「そうですね……。では、山口さんの話をします」
田中は安堵したように信濃を見た。
「山口さんは、葵さんのために、全国から少年たちを集めていました」
白須が目を伏せた。
「葵さんのために、ご自分のホテルに仕掛けを作り、少年たちを捕まえて――」
信濃はマジックミラーを一瞥して田中だけに囁いた。
「少年たちの肝を、真島家の人間と一緒に、満月の晩餐会で食べていました」
成田は信濃が白須を気遣う様子を悟った。
「葵さんは最初は楽しんでいたと思います。――303号室から304号室へ向かうカラクリ箱の中は六十秒の暗闇になります。音も光もなく、時間の感覚すら奪われる……。無音の世界に沈んだその中で、葵さんはスーツケースに身を沈め、狂気に満ちた興奮を抱えていたのだろうと想像できます」
「はぁ?」
「その後、304号室で自分に似た少年をスーツケースに入れて、山口さんに生贄として捧げる――食べられる少年に代わって部屋を出た瞬間、葵さんはオーガズムとしか呼べない状態だったと思います」
信濃はにっこり微笑んだ。
「ほんと、下品ですね」
田中は呆れたように呟いた。
「葵さんは自分が嫌いだった……。自分のせいで大好きな母親が亡くなったから……」
田中は信濃の顔をじっと見つめた。
「だから葵さんは自分に似た者を葬ることで、歪んだ心の糧を得ていたんです」
「心の糧……」
「ただ、誤算が生じています」
「誤算?」
「山口さんが少年たちを芸術作品のように扱ってしまったことです。――葵さんはそれを快く思っていなかったはずです」
「どうして信濃さんにそんなことが分かるんですか?」
「田中さん、私は犯罪プロファイラーです。犯人がなぜ犯罪に手を染めるのか、その動機を探るのが仕事です」
「山口の動機は何だったんですか?」
「山口さんの動機は……葵さんを守りたいだったと思います」
田中の目が泳いだが、すぐに顔を伏せた。
「田中さん、葵さんの動機、気になりませんか?」
「えっ?」
「……葵さんの動機は、真島の人間に殺された母親の復讐です」
「殺された?」
「はい……。十歳の時、真島の人間によって母親と引き離され、それ以来、二度と会えませんでした。――亡くなったことも知らされず、真島家では暴力を受けて……」
信濃の目に葵への同情が見えた。田中は彼女をじっと見つめた。
「京都で見た五歳までの葵さんの写真は、どれも笑っていました。――山口さんは大倉さんや田中さんの訪問で、警察に気づかれるのは時間の問題だと悟りました。そして……最後の仕上げに入ります」
「仕上げ?」
「はい。――それは田中さんに自分を殺害してもらうことです」
「はぁ?」
田中は驚いて席を立ったが、すぐに腰を戻した。
マジックミラー越しに白須が成田に言った。
「成田、おまえの彼女、心臓に悪いな」
「はい、すみません」




