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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第九章
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54/60

求塚 5

5


 大倉は警察病院に緊急搬送され、すぐ手術室へ運び込まれた。

 三時間後、手術は終わったものの容体は急速に悪化していた。

 扉が開き、大阪府警の久下と大倉の息子・智也が病室へ駆け込んできた。

「お父さん……」

 震える声で呼びかけた。

 大倉は朦朧と目を開け、視線をさまよわせた後、息子の顔を一瞬だけ見た。目は虚ろで記憶の輪郭はほとんど残っていなかった。言葉はなく、ただ小さく息を吐くようにまぶたを閉じた。

 傍にいた医師が、顔を伏せるようにして告げた。

「……お亡くなりになりました」

「お父さん!」

 智也は立ち尽くしたまま父の手を強く握った。もう動かない手には最期の温もりが残っていた。

 智也の嗚咽が廊下に響いた瞬間、誰も口を開かなかった。


 信濃は離れた場所に立ち尽くしていた。両手には大倉の血の跡が残っていた。きちんと洗ったはずなのに、指先にはまだ生温い感触が残っていた。

 表面上は冷静を装っていたが、心臓の鼓動が不意に高鳴るのを身体の奥で感じていた。犯罪という非情な世界を長く見つめてきた彼女にしては珍しく、心と身体の歯車が噛み合っていなかった。「大丈夫」と自分に言い聞かせながらも、バランスを崩しそうになっていた。

「信濃さん、大丈夫ですか?」

 成田が心配そうに歩み寄ったが、視界が揺らいで声も遠くに聞こえた。

 大倉の心臓が弱っていくのをこの手で感じ取った。あの感触が甦って両手が次第に震え始めた。

「靖代!」

 成田がその手を取った。

 信濃はハッとして我に返り、成田の顔を見上げた。と同時に、廊下の奥から智也の嗚咽が聞こえてきた。

 大倉の死を悟った頬に、片方の目から一粒の涙が伝った。

 涙を見た成田はそっと彼女を抱き寄せた。

 温もりに安らぎを覚えながら、成田の腕の中で両目を閉じた。


 大倉の葬儀会場には、多くの人が席を埋めていた。

 祭壇正面の遺族席には智也だけが座っていた。少年の面影が残るが、どこか父に似た眼差しもあった。真新しい喪服は少し大きめで、成長途中の少年らしさを感じさせたが、十七歳という年齢を超えた品位もあった。

 大阪府警時代の仲間も遠方から駆けつけていた。

 焼香を終えた白須総監が遺族席の前に立つと、参列者たちは騒がずに見守った。

 白須は祭壇を見上げ、遺影の前で深く頭を下げた。智也の前に立つと、軽く会釈して一瞬だけ目を向けた。

 失った我が子と同じ年頃の少年が一人で父を送っている。その姿に白須は言葉にならない痛みを感じていた。

 智也も深く頭を下げた。

 白須はしばらく立ち尽くしていたが、もう一度礼をしてその場を離れていった。

 久下は式場の端から、白須が智也に息子の面影を重ねているのを感じながら二人を見つめていた。

 新庄と成田の姿もあった。

 新庄は大倉を一人で田中に会わせたことを悔やんでいた。あの時、自分が止めていれば――その思いが胸の奥に重くのしかかっていた。

 成田も自責の念を抱えていた。信濃から田中がおかしいと聞いていながら、何も行動に移せなかった。

「成田さん……信濃さんは来ていますか?」

 新庄が問いかけると、成田は首を横に振った。


 田中は肩の負傷で入院していた。取り調べは当初の予定よりも遅れ、状態が落ち着いてから行われることになった。医師によれば精神的ストレスと肉体的損傷が重なり、現時点では聴取に応じられる状態ではないという。

 病室には警察官が常時付き添い、逃亡や自傷を防ぐ措置が取られていた。

 信濃は田中に会えないと分かっていながら病院の前で立ちすくんでいた。肩を落としてため息をつくと、スマートフォンに成田から電話が入った。

「はい……」

「信濃さん、どこにいるんですか?」

「田中さんの病院です」

「俺も今から行きます」

「大丈夫です。それに、私は今から大阪に行きます」

「じゃあ、一緒に行きます」

「駄目です。私一人で行きます」

「――俺を避けていますか?」

 成田の言葉に、立ち止まって無言のまま視線を落とした。

「信濃さん、聞いてますか?」

 問いかけにしばらく言葉が返せなかった。

 大倉の死が胸の奥に重くのしかかっていた。命が失われていく感触がまだ指先に残っていた。信濃は母一人子一人で育った。母はプリオン病で病院で最期を迎えた。握った手は何も返してもらえず、次第に冷たくなっていった。辛い感触が甦って心が揺れていた。

 ここまで引きずるとは思わなかった――。だからこそ、あの瞬間を共にした成田と顔を合わせるのが怖かった。

 自分の感情に飲まれることが、犯罪プロファイラーとして失格なのではないかと感じていた。

 その一方で、成田は迷いなく動いていた。田中の逮捕に踏み切り、冷静に現場を指揮して事件の後始末を進めていた。その姿を見て、成田がすでに大倉を超える「刑事」になっていることを感じ取っていた。

「失礼します……」

 信濃は電話を切った。



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