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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第九章
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52/60

求塚 3

3


――五日前。

 退院した薫は大阪の自宅で建築図面に向かっていた。

 信濃からメールが届いて確認すると、麻希が珈琲を持って現れた。

「薫さん、休憩してな」

「麻希、この香水調べてくれるか?」

 薫はメールに添付されていた香水の画像を見せた。

「クリスチャン・ラクロワか……懐かしいな……」

 麻希は自分のスマートフォンを取り出した。

「知ってんのか?」

「ラクロワはエルメスにおった人や」

「エルメスって香水のやつか?」

「うん、エルメスの香水もほとんど薫さんに嗅いでもろたけどな。エルメスはバーキンのバッグで有名なブランドや。ラクロワはそこにおった人やで」

 薫は新大阪駅で刺された後、二度と大倉たちに連絡を取らないと麻希に約束したが、薫のスマートフォンを確認すると信濃と連絡を取っていることが分かって落胆した。麻希は激怒したが、夫の性格を知っているため、薫が何が何でも自分を刺した犯人を突き止めようとしているのだと最終的には理解した。ただ、大倉のことはまだ許せなかったので、真犯人が見つかるまでは薫に連絡を取らないようお願いした。

「その香水は廃盤やて」

 図面を引きながら薫は言った。

「廃盤でも売ってるわ。――今、注文したから」

 麻希はスマートフォンを操作すると、薫を後ろから抱き締めて頬にキスをした。

 薫は手を止め、何かを考え込むように視線を落とした。

「薫さん、どないしたん?」

「なんやろな……。今回の犯人、ちゃう気がする……」

 その言葉に耳を傾けながら、麻希は薫の頭を優しく撫でた。


――五日後。

 香水が届き、麻希は薫の前で荷物を開封した。

「あっ、薫さん。離れなあかん」

 麻希は思い出したように薫から離れた。

 事件の後、二人は二か月ほど犯人がつけていた香水を探し続けていた。シャネルの香水はほとんど試したが、どれも薫の記憶に響かなかった。他のブランドも嗅いだが、近い香りもあればまるで違うものもあり、記憶は次第に曖昧になっていった。

 香りから記憶を呼び起こすため、麻希はある方法を提案した。刺された時の状況やその場を再現して思い出してもらうというものだった。香水をつけた麻希が犯人になって薫の横を通り過ぎる――そんなシミュレーションを何度も繰り返した。

「ほな薫さん、向こう向いててな」

「はいよ」

 薫は立ち上がって背を向けた。

 麻希は巻貝のような形をしたボトルの蓋を外し、香水を右手に垂らした。ナイフを持つ素振りをして薫の背後に近づき、刺された左脇へそっと手を伸ばした。

 香りがぱっと広がった。瑞々しいシトラスの甘さにベルガモットとタンジェリンの香りが空気を震わせた。

 その香りを嗅ぐと、薫は反射的に麻希の手を掴んだ。と同時に、あの日の記憶が一気に脳裏に溢れ出した。

 耳に残るのは早朝の新大阪駅構内の騒めき。アナウンスの声、人混みの足音、キャリーケースのタイヤが床を鳴らす乾いた音。階段を上がる自分の背後に誰かの足音が重なっていた。振り向く暇もなく背後から押し寄せる気配――。

 黒いマスクにサングラス。フードを深くかぶった黒いジャンパーに、黒手袋をはめた人物が薫の脇腹を刺した。続けてショルダーバッグに手を伸ばしたが、薫は反射的に犯人の右手を掴んだ。

 その瞬間、視界が揺れた。階段の上から強い衝撃が走る――身体が宙に浮いて足元の景色が反転した。

 香水の香りが封じられていた記憶の扉をこじ開けた――そこにいたのは薫を睨みつける田中の姿だった。

 薫はハッと目を見開いた。

「田中や! 犯人は田中や!」



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