隅田川 6
6
――五年前。
葵飾簪の店内には疲弊が漂い、暖簾の奥で渡辺がかろうじて立っていた。
その日、着物姿の山口が秘書の春日を連れて現れた。
春日が書類を取り出し、渡辺に差し出して言った。
「これで全て片付いています」
それは債権譲渡通知書と返済免除の合意書だった。渡辺は書類を見つめ、信じられないという表情で二人を見上げた。
「変な話、山口さんが現れへんかったら、あの日、私は死のう思うてたんです。――でも、山口さんのお陰で、今はこうして生きてます」
「命の恩人ですね」
信濃の言葉に、渡辺はにっこりと笑って答えた。
「はい」
それから二人は渡辺から葵の母・今村条美の話を聞いた。
条美は芸妓時代、慶典に無理やり関係を強いられた。慶典の影響力が強く、警察に訴えることができず、苦しんだ末に芸妓をやめてこの店に逃げ込んだ。
葵を身ごもっていることが分かり、堕胎を考えたが、条美は子に罪はないと、産み育てることを決意した。
「条美ちゃんは、この店の『葵飾簪』から葵ちゃんの名前を取ったんどす」
成田はてっきり、演目の『葵上』から取った名だと思っていた。
「条美さんと葵さんは、いつまでここにいたんですか?」
信濃が尋ねた。
「葵ちゃんが五歳になるまで、ここにおりました」
渡辺は思い出したように席を立ち、古いアルバムを持ってきた。
「信濃さん……条美ちゃんになんとなく似てはりますなあ。先ほどびっくりしましたわ」
「そうですか……」
「お化粧、あんまりしはらへんのですか?」
「はい、化粧は面倒なのでほとんどしません」
信濃は成田と一緒にアルバムを確認した。アルバムには条美と葵のこれまでの記録が詰まっていた。
成田は条美の写真を見てから信濃の顔を見上げた。――信濃と条美の面影が重なり、驚くほど似ていることに気づいた。信濃はほとんど化粧をしていないため整った顔立ちは素顔のままで、これまで深く意識せずにいたが、写真の条美を思い浮かべた瞬間、化粧をしたらどれほど美しくなるのか――成田は息を呑んだ。
五歳までの葵はどの写真も笑っていて、信濃が真島家で見た冷ややかな表情とは別人のようだった。写真の中の笑顔は遠い幻のようで、無理やり真島家に連れて来られた日から葵は地獄のような日々を送っていたに違いない……。
「山口さんの事件の後、葵ちゃんの写真がマスコミに流れてましたけど……どれも、ちっとも笑ろうてへんかった。――二人で大阪でひっそり暮らしてはっただけなんどすけど……やっぱり、あの男の血が流れてるせいどすやろか……葵ちゃんには才能があって、そのせいで真島の人間は条美ちゃんから葵ちゃんを奪うて……二人の笑顔まで奪ろてしもうて……ほんま、許せまへん」
渡辺は抑えていた怒りを言葉の端々に滲ませていた。
信濃は葵を抱く条美の写真を見つめながら、演目『隅田川』に登場する狂女を思い出した。狂女も奪われた我が子を取り戻そうと、その思いだけを胸に川辺をさまよい続けたが手が届くことはなかった。
条美も葵を取り戻そうとして真島の人間に阻まれ、希望を打ち砕かれながら少しずつ心を壊していったのだろう。
「条美さんの遺骨は……渡辺さんが引き取られたのですか?」
「そうどす……。入院先の精神病棟で、条美ちゃんが自死やって知って……もう、気が気やありませんでした……」
渡辺は声を潜めたまま俯いた。
部屋には三人の呼吸と、遠くから聞こえる街の音だけが流れていた。
信濃は幼い葵もこの音をうっすらと感じ取っていたのかもしれないと思った。
「条美さんのお墓はどこにありますか?」
信濃が口を開いた。
「実は……お墓はおまへん。条美ちゃんの遺骨は、五年前に山口さんへお渡ししました」
「えっ?」
成田が驚いて信濃を見た。
「借金の肩代わりと一緒に、遺骨を譲るちゅうて書類にサインしましたえ。――葵ちゃんに渡すちゅうて約束してくれて、私らも安心しましたんどす」
渡辺は微笑みながら言った。
山口邸の家宅捜索でそれらしい遺骨は見当たらなかった。真島家の人間が条美の遺骨を引き取ったのかどうか気になるところだったが、ここに来た本当の目的は香水を見つけることだ。
「山口さんに、条美さんが愛用していた香水を教えましたか?」
「はい」
「条美さんはどんな香水を使っていましたか?」
信濃は渡辺を真っ直ぐ見つめて尋ねた。
「ラクロワの貝殻みたいな瓶の香水なんよ。黄色のフローラルどすわ。――葵ちゃん、あの匂いがよう好きでした」
探していた香水がようやく分かり、二人は顔を合わせた。
「渡辺さん、ありがとうございました」
信濃は深く頭を下げた。
「いいえ。弁護士先生から聞きましたえ。信濃さんは山口さんがどうしてこんな事件を起こさはったんか、お調べになってるんやって……うちもその理由を知りとうて……。世間さんから見たらあの人は怪物やったかもしれしまへんけど、うちにとって山口さんは命の恩人どす」
「はい……」
信濃は頷いて渡辺に微笑んだ。微笑みには簡単に割り切れない何かが残っていた。
「今日はこの近くにお泊まりにならはるんですか?」
「いいえ、このまま東京に帰ります」
信濃の返事に、成田は少しがっかりしたように肩を落とした。
「もう夕方どすし、お腹も空いてはるやろ。主人の店が近うにありますさかい、よかったらお食事をお持ちしますえ」
「でも……」
「明日、条美ちゃんが葵ちゃん連れてよく行かはった『清水三年坂美術館』、ご一緒いたしませんか? 山口さんもお好きやった場所どす」
「はい、是非」
信濃は迷わず答えた。
「二階にお部屋もありますの。今夜はここにお泊まりくださいな。お二人、お部屋はご一緒でも構いませんか?」
渡辺は二人の親しげな様子から、同じ部屋でも問題ないと察して言った。
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
信濃が即答すると、成田は嬉しさのあまり、視線のやり場に困ったように辺りを見渡した。
「用意してまいりますさかい、しばらくお待ちくださいませ」
渡辺が席を立って二階へ行った。
二人きりになった成田は照れくさそうに言った。
「信濃さん、大丈夫ですか? 同じ部屋で一晩ですよ……」
「はい、大丈夫です」
答えながら、スマートフォンで「ラクロワ 香水 フローラル」と検索した。フランスのファッションデザイナー、クリスチャン・ラクロワが2001年に発売した「オーフローラル」という香水がヒットしたが、すでに廃盤していることも分かった。
その画面をスクリーンショットに収め、画像を添付して薫にメールを送信した。
「分かりました……」
成田は一晩一緒に過ごせることを喜んでいた。
送信し終えた信濃は思い出したようににっこりと笑い、成田に向かって言った。
「成田さん、襲ったりしませんので、安心してくださいね」




