隅田川 3
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警視庁一階のロビーで、長山を前に信濃と成田が立ち話をしていた。
離れた場所で、大倉は気づかれないように聞き耳を立てていた。
「薫さんにもよろしくお伝えください」
長山が言うと、隠れていた大倉が「やっぱりな」という顔をした。
「はい、お伝えしておきます」
信濃が微笑んだ。
「不謹慎ですが、四人で力を合わせてあの鏡板を開けた時の興奮ときましたら……本当に楽しかったです」
長山が嬉しそうに言うと、成田も頷いた。
「はい、俺もです」
「事件を解決したいという気持ちに年齢は関係ないのですね。まるで少年探偵団のようで……」
「分かります。薫さんが明智小五郎みたいでしたね」
信濃が笑って長山に言った。
「ええ……まさか七十を過ぎて、探偵ごっこができるなんて……いい経験をさせていただきました」
長山の言葉に、大倉はボーイスカウト時代の、薫が疑われた金銭盗難事件を思い出した。
「また、探偵ごっこしましょう」
成田の言葉に、長山は子供のように「はい!」と元気よく答えた。
信濃と成田は深々と頭を下げて長山を見送った。
ロビーで、女性職員たちが成田をちらちら見ていた。制服姿の者も私服姿の者も浮き立った様子で、その場に華やかな空気が漂っていた。
――そこへ大倉が現れた。
「おまえら、やっぱり薫と繋がっとったな」
関西訛りの低い声が響いた瞬間、空気が一気に現実に引き戻され、女性たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。
「えっ? 何のことですか?」
信濃がとぼけると、成田もすぐに合わせた。
「かおる? ああ、信濃さんと駐車場にいる猫のかおるの話をしていたんです」
「そんな猫、おるか!」
大倉が声を上げると、信濃はハッとしたように顔を上げた。
「失礼します!」
そう言い残して長山を追った。
「あっ、もー、大倉さん! 邪魔しないでください! せっかく二人きりになれたと思ったのに……」
成田が残念そうに言った。
「なんや、やっぱりおまえ、信濃と付きおうてへんやんか」
「……仕事に戻ります」
成田は不貞腐れたように、エレベーターへ向かった。
「長山さん!」
地下鉄の階段を降りかけていた長山の背後から、信濃が駆け足で追いかけてきた。
「どうされました、靖代さん?」
長山は足を止めた。
「お聞きしたいことがあって……」
信濃は呼吸を整えながら言った。
「はい」
「山口さんには『大切な時』につける香水がありましたが、満月の晩餐会の時も、その香水をつけていましたか?」
「晩餐会の時の奥様の香水は、毎回シャネルのナンバー5でした」
「晩餐会には、真島葵は参加されていましたか?」
「葵様は一度も晩餐会に参加されたことはございません」
長山の言葉に信濃は驚いたが、すぐに素の顔になった。
「……ありがとうございます」
「靖代さん、何か分かったお顔ですね」
「はい……。長山さんのお陰で犯人に辿り着けそうです」
二人はクスッと笑い合った。
「奥様を殺めた犯人を必ず捕まえてください」
信濃に向けられた長山の眼差しから強い意志が伝わった。
「はい、必ず……」
一瞬も目を逸らさず力強く頷いた。その表情には決意だけがあった。
信濃が捜査一課に戻ると、成田が笑顔で迎えた。
「信濃さん、どこに行っていたんですか?」
「長山さんにお聞きたいことがあったので……」
そう言って、少し考え込んだ。
「信濃さん、本当に成田さんと付き合っているんですか?」
田中が二人の様子を疑いながら目を細めて尋ねた。
「えっ? ああ、はい……」
信濃は軽く答えた。
成田は照れくさそうにしたが、大倉は呆れたように言った。
「もうええって」
「大倉さん」
信濃が大倉をじっと見つめた。
「なんや?」
「私と成田さんの関係は世阿弥の『秘すれば花』なんですよ。――好きな気持ちをあえて秘密にすることで、二人の関係に特別な感情や魅力が生まれるんです」
成田は嬉しそうにしていたが、田中は真剣な眼差しで聞き入っていた。
「あほらし」
大倉には全く響かなかった。
「ところで……薫さんを刺した犯人がつけていた香水、分かりましたか?」
信濃の言葉に、三人は刑事の顔つきに戻った。
「まだや。なんでそんなこと聞くんや」
「先ほど長山さんに山口さんが晩餐会でつけていた香水を確認したところ、いつもシャネルのナンバー5をつけていたそうです」
「私は……シャネルじゃなかったと思いましたが……」
田中は少しバツが悪そうに呟いた。
「ほな、田中がまちごおてたんか?」
「あの日はいろんな客人がいました。――もしかしたら皆さんの香水が重なって、本来の香りが消えてしまったのかもしれません」
「いろんな香りが重なるなら、坂本さんが嗅いだ匂いも犯人の匂いじゃなくて、人混みにいた誰かの香りかもしれませんよ」
「田中さんのおっしゃる通りです。――香水の匂いで事件当時の記憶が甦るのは脳の仕組みから考えても十分にあり得ます。嗅覚は感情や記憶をつかさどる脳の部分と直接繋がっているので、視覚や聴覚よりも強く記憶を刺激するんです。これは『プルースト効果』と呼ばれ、科学的にも研究されています。香りは記憶の扉を開く大切なカギなんです」
「でも、その香水は見つかりますか?」
「成田さん、思い出してください。山口さんの犯行はすべて芸術的に行われていました。――私たちが解いたあの暗号も、ピアノの音を奏でると、能の演目『羽衣』を意識して作られていました」
「はい……」
「『十二』という数字、『六十秒の間』。――山口さんが自ら描いた作品として、今回の犯行を行っていたとしたら……その『大切な時』につける香水は、山口さんにとって非常に意味のある演出であるはずです」
「そうですね……」
成田は信濃の言葉に圧倒されながら頷いた。
「その香水、どうやって見つけるんや?」
大倉が尋ねた。
「おそらく、すでに廃盤になった香水だと思います」
「廃盤?」
田中は驚いた。
「はい……。シャネルの廃盤になった香水からまず探すべきだと思います」
「……すぐに調べます」
田中はパソコンのキーボードを打ち始めた。
「それから……山口さんはこの香水を……真島葵に会う時にだけつけていたと思います」
「葵さんが、山口静香の――」
田中が慌てて言った時、大倉が遮って答えた。
「俺も信濃と同じ考えや」
信濃は大倉を見て、素の顔になった。
「そうだと思いました」
「まずは香水やな。それ見つけてから葵に話や」
「はい、それがいいと思います」
信濃は軽く会釈をし、田中を一瞥してから部屋を出て行った。
田中は葵の名前を聞いて驚き、タイプする手が止まったままだったが、大倉の視線を感じて手を動かした。




