隅田川 1
1
「成田、何があったんや?」
山口邸の能舞台の前で、大倉が成田を睨みつけながら尋ねた。
「いや、信濃さんと長山さんから鏡板がおかしいと言われて、三人でいろいろ試していたらトリックが分かりました」
成田の横で、信濃と長山が微笑みながら立っていた。
「信濃さん、どうして私に相談してくれなかったのですか?」
田中が苛立ちを込めた。
「えっ? 今日は田中さんと大倉さんが真島能楽堂で『鵺』を鑑賞されると知っていたので、成田さんにお願いしました」
信濃の言葉に、成田は微笑んで頷いた。
「おまえら、めちゃめちゃ仲悪かったやんか!」
大倉が睨みを利かせたが、三人は全く動じなかった。
「そうですよ。――成田さん、私に信濃さんが苦手だから、大阪に行きたくないって言いましたよね?」
「あっ、あれは……」
成田はあの時はそう思っていたが、今は信濃が気になり、田中にどう答えるか迷った。何より、大阪行きを代わってもらったことを後悔していた。
「お二人には内緒でしたが……」
信濃は横にいる成田の手を取って「私たち、隠していましたが、こういう関係だったんです。ねぇ、清史郎さん」と付け加えた。
「そうなんです。なぁ、靖代」
成田は驚いていたが嬉しそうだった。
「えーーーーっ!」
田中は目を見開いて驚き、大倉は露骨に疑いの表情を浮かべた。
「もう靖代さんは私に、成田さんの話ばかりされるんです」
長山が二人に合わせて言った。
「嘘つけ! 手ー握るぐらい、俺だって付きおうてない田中とできるわ!」
大倉は田中の左手に触れようとしたが、「止めてください、大倉さん。セクハラですよ、それ」と阻止された。
「まあええわ。ほんで『覗いてはいけない部屋』はどこや?」
「はい、今から開きます」
成田が答えると、長山と信濃が顔を見合わせて頷き合った。それは長い時間を共に過ごし、数々の困難を乗り越えてきた者にしか交わせない無言の合図だった。その様子を見て、大倉は目を細めた。
三人の息はぴったりだった。身体に染み込んだ暗号は、もう確認なしで鏡板を奏でることができた。
そして六十秒という間が流れた時、長山は腕時計を確認して信濃と成田に合図を送った。
最後の音符が奏でられた瞬間、鈍い低音が舞台の奥で鳴った。その音に大倉は驚きのあまり、周囲を警戒するように見回した。
鏡板が動いて隠れていた空間が現れると、見切り板が上がって下の板が折りたたまれた。――その瞬間、冷気が舞台に漂った。
「なんやこれ……」
「『黒塚』の『覗いてはいけない部屋』です」
信濃は大倉と田中を見て、不気味に微笑んだ。
二時間後、能舞台は警視庁の人間で埋め尽くされ、場内は慌ただしくも緊張感に包まれた。
鑑識は手際よく作業を進め、警察官たちは指示を交わしながら動いた。足音や器具の音が舞台に響き、合間に訪れる静寂が張り詰めた空気を際立たせた。
少し離れた場所から様子を見守る信濃と長山のもとへ、成田が心配そうに近づいた。
「長山さん、信濃さん。まだ遺体を引き上げるのに時間がかかります。朝方までかかると思うので、もう帰られたらどうですか?」
「私は奥様のご遺体が引き上げられるのを見届けるまでは、ここにいます」
長山の言葉に場の空気がさらに重くなった。
鑑識が山口静香の遺体を舞台へ運び出して、担架へ移す準備を始めた。
「奥様!」
長山は駆け足で遺体のもとへ向かった。
「成田さん、ご遺体は何体ありましたか?」
「山口さんを含めて、52体です」
「そうですか……」
信濃は右手を口元に当て、何かを考えた。
「信濃さん、もう帰られたらどうですか?」
「成田さんはどうされるのですか?」
「俺は……薫さんに頼まれた責任があるので、ここが片付くまでいます」
「そうですね。――では、私はもう帰りますね」
「はい……」
「頑張ってください」
成田に微笑んだ。
「あの……」
立ち去ろうとした信濃に声をかけた。
「はい……」
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
信濃は出て行った。
成田はその姿を見送りながら、彼女が握ってくれた手を愛おしそうに触り、嬉しそうに微笑んだ。
離れた場所で、大倉と田中は成田をじっと見つめていた。
「大倉さん、やっぱり二人は付き合っているんですね。見ました? 今の成田さんの顔」
「どうやろな……男と女は分からんからな」
大倉がぼやいた。
白須警視総監が数人の部下を引き連れて入ってきた。
大倉の姿を見つけると足早に歩み寄った。
「大倉……透馬は?」
大倉は無言で目を細め、顔を伏せた。
白須は直感的に遺体が地下にあることに気づき、能舞台へ向かった。
「辛いですね……」
田中が白須の背中を見つめながら呟いた。
「堺陽向もおった……」
「そうですか……」
「肝臓を抜き取られた傷があったから、信濃の言う通り、山口は肝を食べてたんやろな……」
「えっ? じゃあ私たち、肝を食べたんですか?」
「田中、おまえあん時一口も食べへんかったやろ。俺が全部食ったんや」
「ああ、そうでした。――つまり、大倉さんが食べたってことですか?」
「田中、おまえ――」
大倉が呆れた瞬間、白須がタンカーに運ばれた息子の遺体に向かって泣き崩れた。
二人は悲痛な光景を見つめた。




