大江山 6
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薫が映るスマートフォンを手にした成田が先頭に立ち、後ろをライトで足元を照らしながら信濃と長山が続いた。
信濃は薫に頼まれ、階段の段数を数えていた。お陰で『覗いてはいけない部屋』が地上から約六メートル下にあることが分かった。そこへ至る道は一段十八センチの蹴上げを持つ急勾配の階段が十七段ずつ二度続く造りになっていた。最初の急階段を下りきった先には小さな踊り場があり、進行方向を変えると再び同じ十七段の急階段が闇の底へ続いていた。
三人は『覗いてはいけない部屋』のドアの前に辿り着いた。
ステンレス製のドアは、感情を拒むかのように無機質だった。表面には薄っすらと三人の影が映り込み、鬼のように不気味に揺れた。
誰も言葉を発せず、三人はただ見つめ合い、互いの頷きで合図を送った。成田が冷たいドアの取っ手を握ってゆっくりとドアを開いた。
その瞬間、冷気が押し寄せた。闇が息を漏らすかのように、重く沈んだ空気が流れ出た。
目の前に広がったのは想像を絶する異様な光景だった。ここは能楽堂の舞台の六メートル真下――舞台とほぼ同じ広さを持つ部屋だった。
床一面に鉄の椅子がびっしりと敷き詰められていた。椅子の数は数えきれず、全てに白いシャツとスラックスを纏った少年たちが座らされていた。全員の顔に能面がかけられ、どれも俯いた悲しみの表情をしていた。少年たちは永遠の舞台の観客のようで囚われた魂の群れのようにも見えた。
信濃は列に近づき、触れることなく並ぶ姿をじっくり観察した。白いシャツの胸元には肝臓を抉り取られたかのような深い傷痕が浮かび上がっていた。この異様な儀式の痕は『黒塚』の肝喰いを彷彿とさせた。
観賞用の椅子が並ぶさらに奥に長山は何かに気づいた。少年たちを確認している成田と信濃の脇を抜け、その先を覗き込むと――すでに凍りついた山口静香の姿があった。
「奥様!」
長山はとっさに山口に触れようとしたが、成田が慌てて止めた。
「長山さん、遺体に触れては駄目です!」
「でも!」
「もう出ましょう!」
成田は長山を連れ出した。
残された信濃は冷気の中にしばらく佇んだ。
目の前の少年たちは異なる面がかけられ、鉄の椅子に並ばされていた。静謐な光景は『演出された死』という儀式のように感じられた。
胸の奥で理性と畏怖の間に微かな震えが走った。これはシリアルキラーの痕跡でありながら同時に一つの舞台、能の幽玄を思わせる世界だった。完璧に計算され、緻密に構成された空間の美しさに無意識に心が引き寄せられた。
「……素晴らしい」
息を呑むようにして呟いた声は、冷気の闇に溶けて消えた。
スマートフォンで全体を何枚か撮影すると、シャッター音が誰もいない観客席に響く拍手のように空気を震わせた。
その瞬間、信濃の目に犯人の意図や心理、空間に注ぎ込まれた狂気の美学が立ち現れた。犯罪プロファイラーとしての冷静さを保ちながらも、この「演出」にある種の敬意を抱かずにはいられなかった。
最後にもう一度少年たちを見つめ返し、名残惜しそうにその場を後にした。
信濃が鏡板を出ると、成田が泣き崩れる長山の背中を優しくさすっていた。
「もう舞台も終わる時間だと思いますので、大倉さんに連絡をします」
「成田さん、少し待ってくれるか? 俺の勘が当たってたら……この鏡板、そろそろ閉まるはずや」
薫の言葉に、成田と信濃は鏡板に目を向けた。
長山も涙を拭いながら顔を上げた。
微かな沈黙が空気に染み込むように広がった。
信濃は鏡板の前に立ち、あの光景を反芻した。白いシャツを着た少年たち。冷たい能面。奪われた命と異様なまでに統制された様式。それを『美』と見てしまった自分に微かな罪悪感を覚えた。
成田は拳を握りしめたまま立っていた。これまで数多くの遺体を見てきたが、舞台の観客のように並べられた光景は初めてだった。理性を保とうとしていたが、身体の奥底に無意識に動揺が流れ込み、それを跳ね除けることに必死だった。
長山は主人の死と向き合った直後の胸の痛みに耐えながら、目にした惨状を思い返していた。気づけなかったこと。守れなかったこと。深い悔恨と無力感が胸を締めつけた。
薫はスマートフォン越しに沈黙を感じ取り、何も言わなかった。
音もない、時間だけが流れた。能の舞台に漂う『間』を思わせる感情の余韻を抱いた沈黙だった。
――その時。
舞台の奥から重く低い音が響いた。地の底から唸るような音は、開かれた瞬間に聞こえた音と同じだった。
次の瞬間、折りたたまれていた板がパタン、パタンと乾いた音を立てながら一枚、また一枚と起き上がり始めた。
左へ寄せられていた八枚の鏡板は、今度は逆向きに右へ戻っていった。横に回転した板は、ぴたりと元の位置へ収まって継ぎ目を消した。
見切り板が降下して鏡板を支えると、重ねられていた奥の板張りもゆっくりと前へ戻っていった。空洞は塞がれ、空間は完全に閉ざされた。
冷気が舞台の奥へ吸い込まれていった。長い闇が再び深い眠りへ落ちていくようだった。――封印が完了した。
「十二分や」
スマートフォン越しの薫の声に、三人が反応した。
「ホテルのカラクリ箱は十二回で開くように設計されとった。この鏡板の音も十二音で、『覗いてはいけない部屋』に生きとる人間がおらんことを確認してから十二分で閉まるようになっとる。――長山さん、山口静香さんにとって、数字の十二に何か思い出はありますか?」
薫はすでに亡くなっている山口に対しても敬意を込めて「さん」を付けて尋ねた。何より、ホテルのカラクリ箱の仕掛けも見事だったが、鏡板の仕組みは一級建築士として心から称賛せずにはいられなかった。山口には生きていてほしかった――そう思わずにはいられないほど、その巧妙さに心を打たれていた。
「やはり、奥様は旦那さまを大切にしておられたんですね」
長山は立ち上がり、背筋を伸ばして亡き主に深い敬意を表した。胸の奥には主人が犯した過ちを思いながらも、最後まで変わらずに愛を捧げていた姿への言いようのない切なさが広がっていた。
「旦那様がプロポーズされた時に、ジャクソン・ポロックの絵画『ナンバー12(トゥエルブ)』を贈られたそうです」
「それで十二か……」
「山口さんは、本当に芸術がお好きだったんですね」
信濃が感心しながら頷いた。
「はい……。芸術が奥様の癒しでございました」
「――薫さん、そろそろ大倉さんに連絡を入れます」
成田が信濃にスマートフォンを渡し、自分の端末を取り出した。
「成田さん、俺のことは黙っといてくれへんか」
「どうしてです? 薫さんのお陰で『覗いてはいけない部屋』が見つかったんですよ」
「ちゃう、みんなのお陰や。――靖代、いや、信濃さん、俺の目になってくれてありがとう。長山さん、快く協力してくれて、ヒントもたくさんいただきました。本当にありがとうございました。――成田さん、わがままに付き合ってくれて本当にありがとう」
薫は慣れない敬語で深々と頭を下げた。
「俺なんて……全然役に立っていません」
「いいえ、成田さんは立派な刑事さんです」
「そうですよ。だから私は成田さんを選んだんです」
信濃は普段見せない優しい笑顔を成田に向けた。
「このチーム、ほんま最高やな!」
四人は互いに微笑んだ。
「あとは、山口静香さんを殺した犯人を見つけるだけや。そいつは見えへん暗闇に潜んどる」
薫の言葉に、三人の顔つきが変わった。
「――頼むで、成田さん」
薫は電話を切った。
画面が真っ暗になり、三人はしばらく消えた光を見つめていた。




