大江山 5
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「ええか、今日こそ開けるでー」
山口邸の能舞台の上に置かれたスマートフォン越しに、病室の薫の声が響いた。画面を覗き込む信濃、長山、成田の表情は真剣そのものだった。
この一週間で四人の間には絆が生まれていた。鏡板が八枚あると分かった時、長山は山口がピアノ好きだったことを思い出した。
「奥様のアート部屋にグランドピアノがございます。奥様は以前はクラシックに夢中でした。もしかするとこの八枚の板はピアノの原盤――ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドを表しているのではないでしょうか」
「だったらその音を奏でたらいいのかも」
信濃の言葉に、薫の表情は子供のようにわくわくと輝いた。
「長山さん、この部屋には山口さん以外に誰がよく出入りされていました?」
成田が尋ねた。
「そうですね……奥様はこの能舞台を造られた当時、よくシェフの東と一緒に中を確認されていた気がします」
「そのシェフも山口さんと同じく、現在行方不明ですね」
信濃が言った。
「はい……。東はかつて三ツ星ホテルで腕を振るうシェフでした。ですが従業員を守ろうとした際、客に誤って大怪我をさせてしまい、傷害罪で一年の刑期を務めることになってしまいました。出所後、奥様が雇ったのです」
成田と信濃は目を合わせた。亡くなった運転手、小泉も前科者だ――それで山口が東を雇ったに違いない。
「長山さんは、一緒にこの部屋を確認しなかったんですか?」
成田が尋ねた。
「私は……もともと奥様の亡くなられた旦那様にも仕えておりました。ですから奥様は私のことを少し警戒されていたのかもしれません」
寂しそうな長山に信濃は言った。
「警戒してくれたからこそ、今こうして長山さんは私たちの仲間じゃないですか」
「靖代さん、優しいお言葉をありがとうございます」
「シェフはこのカラクリを知ってたんやろうな……」
薫の言葉に、長山は何かを思い出したように表情を変えて厨房へ向かった。
信濃と成田が後を追うと、料理本のファイルをめくっていた。三人が見守る中、長山はフォアグラのポワレのページを開き、皆に示した。
「ここです。このレシピの下に暗号のような記号があるんです」
全員が身を寄せて覗き込むと、ボールペンの小さな文字で「C2 C3 C4 C5 C6 C5 C4 C3 P C4 C5 C7 C8」と書かれていた。
「これ楽譜ですね。鏡板は長山さんのおっしゃる通り原盤ですね」
信濃が言った。
「靖代、それを鏡板で奏でられるか?」
スマートフォン越しに薫の声が弾んだ。
「はい、やってみます」
それから三人は、何度も板を押し上げたりずらしたりしながら音を確かめた。
だが、その日はどうしても思うようにいかなかった。
――そして、再びこの日を迎えた。
今日は真島能楽堂で『鵺』の公演が行われる。
大倉と田中は招待されたチケットを手に、会場へ向かった。二人を見送った成田は、信濃と共にすぐ山口邸へと向かった。
この数日、四人の頭の中は鏡板のスライドの手順でいっぱいだった。
薫は「ホテルのカラクリ箱」と同じ仕組みだと考えていたが、成田は「能そのもの」に関係しているのではないかと感じていた。
四人が辿り着いたカラクリの仕組みはこうだった。
例えば「C2」の場合は、向かって左から二枚目の板を上にスライドさせる。次に「C3」を同じように上げ、そのあとで先に動かした「C2」を元の位置に戻す。――そうすると板がきれいに噛み合うことが分かった。
だが、「P」だけが分からなかった。
「このPは、ピアノのPではないんですね……」
長山が呟いた。
「ほんま、なんのPなんや」
スマートフォン越しに薫がぼやいた。
「あっ、もしかしたら『pause』、『間』かも。能って間が大事っていうじゃないですか」
成田の言葉に、三人が一斉に顔を上げた。
「能の間って……あの静かにしていることで緊張感を出したり、余白で観客にいろいろ想像させたり、舞台に立っている者同士の合図にもなるんですよね。――ただの沈黙じゃなくて感情とか意味がぎゅっと詰まった空白っていうか……。前に演目を調べた時にそんなことが書いてあった気がします」
「それですね! 『黒塚』を観た時、前場と後場の間に、間狂言が入りました。アイ、つまりPはpause 、間を指していると思います」
信濃が嬉しそうに成田に言った。
「奥様ならその間を大切にすると思います」
「でも……その間、何秒いるかな?」
成田が考えながら呟いた。
「ホテルのカラクリ箱と同じ六十秒や」
薫の声がスマートフォン越しに響いた。
成田が深呼吸をして、鏡板に手を伸ばした。
「C2」――向かって左から二枚目の板をゆっくりと上に押し上げる。続けて「C3」。そして先に動かした「C2」を元に戻す。板と板が擦れる音が、能舞台の奥に微かに響いた。
「C4」「C5」「C6」――順に板を動かしていく。成田と信濃の呼吸が一つになり、長山がその動きを見守る。「C5」「C4」「C3」――再び戻す。
そして「P」。
三人は動きを止めた。
舞台の空気がピンと張り詰めた。誰も動かない。誰も呼吸を乱さない。ただ、沈黙だけが舞台を満たした。
薄い光が鏡板に沿って沈み、檜の床だけがその空気を受け止めていた。
成田は胸の奥で自分の心臓が打つのを感じた。信濃は目を閉じて音なき音を聞くように意識を研ぎ澄ませた。長山はかつて主人がここに立っていた空気を思い出した。
六十秒。永遠のようでいて刹那のようでもある時間。何も起きないのに、何かがこちらを見ているような気配だけが舞台に満ちた。
――まさに能の「間」。
沈黙が意味そのものになる瞬間だった。
「……ほな、続けて」
スマートフォン越しの薫の声が緊張の膜を破った。
「C4」「C5」「C7」「C8」――最後の板を押し上げた瞬間、鈍い低音が舞台の奥で鳴り、鏡板の継ぎ目に黒い影が走った。
鏡板の後ろに重ねてあった板張りがすうっと後ろへ下がり、空洞が生まれた。と同時に、鏡板を支えていた見切り板が離れて上にせり上がった。
板が横に回転した瞬間、八枚が重なって音もなく左へ寄せられた。
――一瞬の静寂。
空洞にある床下の板がパタン、パタンと乾いた音を立てながら左側に折りたたまれていくと、舞台の奥から怪風がぶわっと吹き抜けた。まるで長く閉ざされていた闇が今、息を吹き返したかのようだった。
スマートフォンを持つ信濃の腕に鳥肌が立った。
長山は思わず一歩後ずさり、成田は驚きで目を見開き、その先から目を離せずにいた。
闇の奥から冷気が吹き出してきた。誰かの息のようでもあり――長い年月を封じられていた時間そのものが吐息を漏らすようでもあった。
板の向こうで『何か』が目を覚ました気配を感じた。
最初に足を踏み出したのは信濃だった。中を覗くと闇へと続く急階段が見えた。
長山と成田も息を整えながら覗き込んだ。
「大倉さんに連絡しないと……」
成田が自分のスマートフォンに手を伸ばした瞬間、信濃が制した。
「舞台が終わってからのほうがいいと思います」
「せや。舞台の途中で席立ったら真島の人間にバレてまう」
薫の声が画面の向こうで響き、成田は黙って頷いた。
四人とも下に何か恐ろしいものがあると分かっていた。
息を呑み、視線を下に向けたまま、しばらく動けずにいた。舞台の冷気が肌に触れ――覚悟の一瞬だった。
「じゃあ、下に行きますね」
信濃が一歩踏み出した瞬間、成田が前に出て、彼女の手からスマートフォンを受け取った。
「俺が行きます」
「成田さん、無理しなくても大丈夫です。私は犯罪プロファイラーです。慣れています」
「いいえ、信濃さん。俺は刑事です。先に行かせてください」
成田の目は闇を見据え、誰よりも先に状況を確かめる決意があった。
信濃は短く息を吐いて頷いた。
「分かりました。長山さんはここにいてください」
「私はここの執事です。この家の全てを知る権利があります」
空気が張り詰めていたが、三人は一斉にプッと吹き出して笑い出した。
スマートフォン越しに薫も三人の様子につられて笑みがこぼれた。
「――ほな、皆で行こか」
薫の言葉に三人は頷いた。
四人はゆっくりと暗闇の中へ沈んでいった。




