大江山 3
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信濃は探りを入れるため、捜査一課を訪れた。
大倉と田中は、山口の行方が掴めない今、『青少年失踪事件』の捜査を続けるのが困難となり、他の事件の捜査に協力していた。
「お疲れ様です」
信濃が笑顔で二人に挨拶をした。
「信濃さん、どうしたのですか?」
田中は書類に目を通しながら聞いた。
「近くに寄ったので挨拶に来ました」
「そうですか」
「大倉さん、山口静香さんの香水って、シャネル以外に何かありましたか?」
「香水? 信濃、なんでそんなこと聞くんや?」
大倉は手を止めて睨みながら尋ねた。
「山口静香の香水はシャネルのナンバー5ですよ」
田中は見上げて言った。
「はい、知っています。でも……長山さんがおっしゃっていました。山口さんは『大切な時』につける香水があるって」
「大切な時? おまえ、いつ執事からそんな話聞いたんや」
「先日、能舞台を確認しに行った時です。あの後、香水の話題になったんです。それで『大切な時』につける香水があると聞いて……もしかしたら大倉さんもその匂いに気づいたのかと思って」
「……そういえば『黒塚』観に行った時、山口の香水、シャネルちゃうかったな」
「肝の時、晩餐会の時はどうでした?」
信濃が慎重に尋ねた。
大倉はしばらく記憶を辿ったが、答える前に田中が口を開いた。
「あの日も……シャネルじゃなかった気がします」
「確かに晩餐会は『大切な時』ですね。――その山口さんの大切な時に使う香水が、薫さんが刺された時に使われた香と同じだと思います」
「……信濃。おまえ、なんで薫の香水の話知っとるんや? 東京戻ってから、その話、俺してへんよな」
大倉が目を細めた。
「本当ですね」
田中も信濃に疑念の眼差しを向けた。
「大倉さん、私に言いましたよ。忘れましたか?」
信濃は田中に背を向けたまま、素の表情で大倉を見つめた。大倉はその意味を悟って頷いた。
「……してたな」
「もう、大倉さん。本当に忘れっぽいですねー」
田中の方を向いた信濃は、いつもの作り笑顔に戻っていた。
そこへ成田が戻って来た。信濃と目が合うと顔を顰めて引き返した。
「お邪魔しました」
信濃は二人に会釈して成田の後を追った。
大倉は信濃の様子を見て薫が関わっていることに気づいたが、今は知らないふりをしておく方が得策だと考えた。小学生の頃から知っている薫が、麻希のために捜査に加わらないと決めた――その話はにわかには信じがたかった。性格を思えば犯人を野放しにするはずがない。むしろ麻希の目を盗んで動くのは当然の流れだった。自分と同じ闇を抱える信濃を使うとは……さすがとしか言いようがなかった。
大阪の病室で二人きりになった時、薫は大倉に日曜学校で教わった聖書の一節を語った。二人ともクリスチャンではなかったが、小学生の頃に覚えたその御言葉だけは心の片隅に残っていた。マタイによる福音書10章16節――「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という御言葉だった。「蛇のように賢く」とは、危険の中でも油断せず周囲をよく見て行動せよという意味で、「鳩のように素直に」とは、悪意に染まらず誠実であれという教えである。
本来は、知恵と純真さ、その両方を持って生きよという戒めの言葉だ。薫は犯人が常に罠を仕掛けてくる可能性があるから油断するな、ずっと蛇でいろ。鳩の素直さは捨てて自分だけを信じろと忠告した。
幼い頃から蛇のように生き抜く力を培ってきた大倉にとって、この御言葉は一層の戒めとして胸に響いた。その言葉を胸に刻みながらも、もっと薫と話したかった……。この事件を解決させてから会いに行こう――そう心に誓った。
「なあ、田中……。肝の晩餐会の時、山口の香水、シャネルやなかったか?」
「えっ? あの日、山口静香の香水はシャネルじゃなかったと思います」
「あん時、山口から俺ら席離れとったな……」
「そうですね。でも匂いはきつかったですよ。――もしかしたら、慶之助さんのお母さんの香水と重なったのかも?」
「香水って厄介やな」
大倉はため息交じりに呟いた。
成田は不貞腐れていた。大嫌いな信濃が運転する車の助手席に座らされ、どこへ向かっているのかも分からない状況に、ますます機嫌が悪くなっていた。捜査一課に戻ると信濃の姿が目に入り、とっさに身体が拒絶反応を起こした。すぐにその場を離れようとしたが、背後から追いかけられ「一緒に行ってほしい場所があるんです」と声をかけられた。
無視して立ち去ろうとしたが、冷たい声が飛んできた。
「成田さん、その態度、そろそろ止めたほうがいいですよ」
振り返った瞬間に見た信濃の無表情な顔――それがやけに怖くて、反射的に足が止まり、そのまま車に乗せられてしまった。
「どこへ行くんですか?」
成田はようやく言葉を絞り出した。
「山口静香さんの邸宅です」
信濃は前を向いたまま、冷たい表情で答えた。
「……このこと、大倉さんは知っているんですか?」
「ええ、気づいています」
一瞬だけ成田に視線を向け、微かに笑った。
山口邸に近づくと、執事の長山が大門を開けて出迎えた。信濃の車はそのまま中へと入り、門は外の世界を遮るように閉じられた。
成田は不意に胸が騒ついた。何が起こるのか分からず、不安に駆られた。刑事であるはずの自分がその不安に少しずつ呑まれていくのを感じ、情けなさが胸を締めつけた。
車を降りた二人は、長山に案内されて客室へ向かった。
二人が座り心地のよい椅子に腰を下ろすと、ほどなく長山が紅茶を運んできた。湯気とともに立ちのぼる香りさえ、今の成田には落ち着かなかった。
信濃は一口啜り、カップを置いた。
成田はカップに手を伸ばしかけたが、結局触れられなかった。その温もりさえ怖く感じられたからだ。
信濃は何事もないように、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を上にしてテーブルに置いた。
そして――指先で軽くタッチした。
「揃ったか?」
画面には病室が映し出され、ベッドの上にいる薫の姿が現れた。
「はい、薫さん」
信濃が答えると、成田は驚いた表情になった。
「長山さん、座ってな」
「はい、かしこまりました」
長山は信濃の横に背筋を伸ばして腰を下ろし、紅茶を味わい始めた。
「成田さんやんな」
薫がスマートフォンの画面越しに声をかけた。
「はい、成田です。大倉さんのお友達の坂本さんですよね? 以前、警視庁でお会いした……」
「せや。これから俺ら四人で、この家にある『覗いてはいけない部屋』を探すんや」
「えっ?」
成田はまだ状況を飲み込めず、戸惑いの表情を浮かべていた。
「これは敦男にも内緒や。――四人だけの秘密や」
薫の言葉に、信濃と長山は目を合わせてニヤリと笑った。
「この秘密、守れるか、成田さん?」
成田は何が何だか分からないまま、この秘密結社に加われたことが誇らしく思え、立ち上がって「もちろんです!」と勢いよく答えた。




