道成寺 4
4
「遅っそいなー。もう一時間も待ってるで」
山口邸の客室で、大倉はイラつきながら呟いた。
「そうですね……。無理にアポイントを取ったので、待たされるのは当然かもしれませんが……」
「なんやあの建物、気になるな」
大倉は離れの建物を指さした。
「はい。能楽堂っぽいですね」
「まだけーへんなら、ちょっと見て来るか」
大倉が席を立とうとした瞬間、長山が山口を連れて入ってきた。
山口が客室に足を踏み入れると同時に、香水の香りが広がった。スパイスとバニラが混ざり合う濃密な香りは華やかさとともに威圧感をもたらし、彼女の存在そのものを告げているようだった。
大倉は気配に圧倒され、すぐに腰を戻した。
「お待たせしました」
山口は田中と大倉の前に腰かけ、背筋を伸ばした。
「お忙しいところお時間を頂きありがとうございます。警視庁捜査一課の田中と申します」
「同じく大倉と言います」
二人は名刺を差し出したが山口は受け取る気配がなく、仕方なくテーブルに並べて置いた。
「捜査一課の刑事が私にどのようなご用件でしょうか?」
「先月、東京湾で見つかった遺体の身元から、被害者が山口さんのホテルに滞在予定だったと判明しまして……」
「すでに秘書から予約はなかったと聞いておりますが」
「はい。しかし、真偽を確かめるため、ホテルの防犯カメラの映像を確認したいのですが――」
「令状はございますか?」
「ありません」
「それではカメラ映像はお渡しできません。――私はまだ仕事が残っておりますので、これにて失礼させていただきます」
山口が席を立った瞬間、大倉が声をかけた。
「敷地内に能楽堂とは……よっぽど真島慶之助がお気に入りなんですなあ」
「私は芸術をサポートしているだけです。文化芸術振興費の補助金だけでは、能楽堂の維持は難しいんですよ」
山口は振り返りもせず答えた。
「芸術もいろいろありますけど、なんでまた能楽なんです? 教えてもらえませんか」
大倉の嫌味な口ぶりに山口はフッと笑った。ゆっくりと席に戻り、名刺を手に取って名前を確認した。
「大倉さん。そんな下品な物言いをするあなたに、芸術なんて興味があるとは思えませんね」
「そんなことありまへん。こう見えてクラッシック聞いてますねん」
山口と長山は「クラッシック」の「ッ」に微かに笑みを浮かべた。
「バッハ、ベートーヴェン、ショパン……皆さんお馴染みの作曲家でしょうね」
山口が嫌味を込めて言った。
「ドヴォルザークの『スラヴ舞曲』72の2番」
田中が思わず大倉を見た。
「この間、田中と一緒に真島能楽堂で『道成寺』を観ました。鐘に閉じ込められた女の怨念を思わせる舞……クラッシックと能は案外通じるものがあるように感じましたわ」
山口は再び笑い、テーブルの上の田中の名刺に目を落とした。
「――田中さん。あなたは能楽をどう感じました?」
「私は……シェイクスピアを観ているようでした」
「シェイクスピアと能楽には内面や霊的テーマの探求という共通点があります。亡霊や死後の世界、精神的葛藤……描かれ方は違えど根本は同じです」
「やっぱりそうだったんですね。――能を観てからいろんな演目を調べて『西王母』に辿り着きました」
「あら、そうでしたの」
「桃が不老不死の象徴で……桃の天女って、少し不思議でかわいらしい……。あっ、まだ初心者なので『かわいらしい』なんて失礼かもしれません」
恥じらいがこもった田中の言葉に、山口の表情はすっかり柔らかくなった。
「あなたたち、面白いわね」
「そうですか?」
田中は少し照れたように笑った。
「――ホテルの防犯カメラですが、他のお客さまのプライバシーもございますので、任意での提供はできません。ですが、令状がございましたら正式に対応させていただきます」
「ありがとうございます」
田中は背筋を伸ばし、山口に深々と頭を下げた。
「よろしければ能楽堂をご覧になりますか?」
「ぜひ、拝見したいです!」
田中が嬉しそうに席を立つ姿を山口は目で追い、含みのある笑みを浮かべた。
大倉は呆れたように二人を見上げた。
「大倉さんが、まさかクラシックを聴いてたなんて……」
山口の邸宅を出た瞬間、田中は言った。
「田中、おまえこそ桃の天女がどうとか。なんやそれ!」
「失礼ですね。『西王母』です。ちゃんとした能の演目ですよ。それより、ドボなんとかって何ですか?」
「ドヴォルザークや!」
「大倉さん、ドヴォルザークって顔してないですよ!」
「おまえ、ほんま失礼なやっちゃなー。ドヴォルザーク言うたら大阪のJR環状線『新今宮』の発車メロディや!」
「やっぱり。そんなことだと思ったんです。大倉さんがクラシックだなんて!」
「あほ! あれは『新世界』っちゅうドヴォルザークの曲や!」
「新世界って、大阪の西成のことですよね?」
「ちゃうわ。ドヴォルザークの曲名に『新世界』いうのがあるんや!」
「でもさっき『スラブ舞曲』って言ってましたよね?」
「田中、しつこい! もうええわ!」
大倉が『スラブ舞曲』を知っていたのは偶然のことだった。元妻との初デートで観た舞台で耳にした曲で、離婚を惜しむ思いからか、今も未練がましくひっそりと聴いてしまうのだ。
「それにしても山口さんの能楽堂、凄かったですね」
「あの舞台、なんやゾッとしたな」
「そうですか? あそこで能を満喫できるなんて、羨ましい限りです」
二人で警視庁に戻ると、成田から伝言を受けた。大阪府警からで、大倉が在籍していた頃の相棒、久下博之(45)からのものだった。
「なんや、大阪でもこの数年で、二人行方不明になっとったんか」
大倉が呟くと、成田が補足した。
「しかも、二人とも顔の雰囲気がよく似ています」
「写真はありますか?」
田中は不安そうに成田へ尋ねた。
「久下さんがすぐに大倉さん宛てに、メールに送ると言っていました」
大倉がデスクに腰を下ろし、パソコンのメールを開くと、写真が二枚添付されていた。クリックすると、大阪で行方不明になっている二人の顔が映し出された。どちらも――真島葵にどこか似ていた。
「真島葵って、どんな男なんですか? 犯罪を犯しそうなタイプなんですか?」
成田が田中と大倉の顔を順に見ながら尋ねた。
田中が答えに迷っていると、大倉が先に口を開いた。
「――悲しい男や」
「どういう意味ですか?」
成田が眉を顰めた。
大倉は画面を見つめたまま、続けた。
「葵はな……真島慶之助の腹違いの弟や。母親は京都の元芸者……もう亡くなっとる。ほんまは大阪で母親と暮らしてたんや。それを――父親の慶典が無理やり引き離したんや」
田中は小さく息を呑んだ。大倉もまた同じように葵の過去を調べていたのだと気づき、胸の奥が騒ついた。
「それは気の毒ですね……。もしかしたら真島家には、まだ他にも腹違いの兄弟がいるかもしれないですね」
成田が冗談めかして言うと、大倉はしばらく黙り込み、低く呟いた。
「葵の父親に、直接話を聞いてみるか……」
「その前に大倉さんは、能楽についてもっと勉強してください」
田中がやや厳しい口調で注意した。
「余計なお世話や」
大倉は席を立ち、振動していたスマートフォンを手に廊下へ出た。
「おお、久下か」
「大倉、元気しとったか?」
「まあな」
「写真、確認したか?」
「ああ、確認したわ。――この一年以内の大阪の十五歳から二十歳の行方不明者を調べてくれて、おおきにな」
「それがな、ちょっとおもろいことになっとんのや」
「なんや?」
「和歌山、兵庫、それに京都でも、顔立ちが似た子供が行方不明になっとるんや」
「なんやと」
大倉は絶句した。




