大江山 1
1
新大阪で薫が刺された事件から一週間後、関西国際空港の預け入れ手荷物のX線検査で、外国人男性観光客のソフトキャリーケースのポケットから凶器が発見された。男性は事件当日、東京駅から新幹線で新大阪駅に到着していた。
凶器がいつキャリーケースに忍び込まれたのかは不明で、男性は「混雑の中、トイレの長蛇の列に並んでいた時かもしれない」と話している。
発見されたナイフは黒い布で包まれたシェフ御用達の高級ブランド製ステンレス牛刀包丁で、薫の血液に加え、塩素系漂白剤も検出された。
「坂本さんを刺した犯人、やっぱり男ですかね」
成田が尋ねた。
「全身黒やったら、男か女か分からんな」
大倉がぼやいた。
大阪から戻った大倉と田中は、薫の手を借りずに、山口の行方と『覗いてはいけない部屋』を探すため、あらゆる手を尽くしていた。手がかりが一向に掴めないまま、大阪府警の久下から、空港で凶器のナイフが発見されたと報告が届いた。
「坂本さんの様態はどうなんですか?」
「まだ回復してへん……まあ、薫のことや。大丈夫や」
「そうですね」
「坂本さんの代わりの一級建築士の方、明日来てくれるそうです」
田中が入ってきて二人に言った。
「そうか……」
「坂本さんみたいに、何か異変に気づいてくれたらいいですね」
「せやな」
大倉は期待しながら答えた。
だが、警視庁が依頼した一級建築士の北川(60)は、全く役に立たなかった。真島家に連れて行っても、設計図にざっと目を通すと「はい、異常ありません」とだけ言い残し、すぐに立ち去ろうとした。その様子を見て、大倉は思わず「おまえ、ほんまに一級建築士の資格持っとるんか」と激怒した。
「大倉さん、北川さんに失礼ですよ」
田中は小声で注意した。
慶之助と梓は相変わらず不気味な笑顔で大倉たちを迎え、高級和菓子とお茶を用意してくれた。
今回は信濃も同行していた。北川と同じく足袋を履き、スマートフォン片手に能舞台を隅々まで撮影していた。
「信濃さん、撮影するなら、ちゃんと許可は取ったほうがいいんじゃないですか?」
田中が小声で注意した。
「あっ、すみません、田中さん。てっきりいいのかと思いました」
信濃は慶之助に近寄り、スマートフォンを手にしたまま「動画を撮っても構いませんか?」と、とびきりの笑顔で尋ねた。
「構いませんよ」
慶之助も負けじと笑顔で答えた。
素の信濃を知る大倉は二人の様子に顔を伏せ、笑いを堪えた。
その時、葵が入ってきて正座し、口を開いた。
「失礼します。慶之助お兄様、おじい様がお呼びです」
言い終えるとすぐに席を離れた。
ほんの一瞬の出来事だったが、信濃の目がわずかに鋭さを帯びたことに大倉だけが気づいた。
「皆さん、失礼します」
慶之助はにっこり笑って席を離れた。
「男前ですね」
北川はあぐらをかいて和菓子を食べながら呟いた。
「ありがとうございます。自慢の息子です」
梓は無駄に色気を出して答えた。
「お母さんもきれいで……」
北川は和菓子をぽろぽろ落としながら言った。
「まあ、北川さんったら……」
梓は口元を手で隠しながら、恥ずかしそうに笑った。
二人のやり取りを見て、大倉は何を見せられているのかと苛立った。
そのまま大倉たちは山口静香の邸宅へ向かった。
執事の長山は快く全員を迎え入れた。
「こちらが設計図でございます」
長山は北川に手渡した。
北川は、真島家の時と同じように設計図にざっと目を通すと、能舞台を一周して見て回った。大倉の視線を背中に感じたので、異常を探しているふりをしばらく続けた。
「すみません。動画を撮っても構いませんか?」
信濃が長山に尋ねた。
「はい、よろしくお願いします」
長山は深々と頭を下げた。
田中は少し離れたところからその様子を見ていたが、信濃がふと振り返ったのですぐに視線を逸らした。
信濃は真島家の時よりも念入りに、能舞台のあちこちを動画で記録していた。
「異常はありません」
北川が告げると、大倉は嫌味を込めて言った。
「一級建築士って誰でもなれるんか?」
北川はムッとしたが、関西弁で言い返されるのが面倒で、黙って目を逸らした。
「すみません、北川さん……」
田中は謝った。
北川は邸宅でのおもてなしを期待していたが、長山から何の反応もなく不貞腐れた。
その後、山口邸を出ようとしたが、信濃の姿が見当たらなかった。
「あれ? 信濃さんは?」
田中が辺りを見回しながら尋ねた。
「お待たせしました」
信濃は長山と一緒に現れた。
「信濃さん、まだ動画を撮っていたんですか?」
「いいえ。長山さんとおしゃべりしていました」
「えっ?」
「さあ、帰りましょう」
大倉が先に門を出ようとした瞬間、信濃はすっと前へ出た。その様子に田中は苛立ちを覚えた。
「ほんま、あの一級建築士、役立たずやったな!」
捜査一課に戻った大倉が、すぐ成田に愚痴った。
「何も異常がなかったのですか?」
「もともと何もなかったんですよ」
田中が言った。
「あっ、またチケットが届いています」
成田は思い出したように二枚のチケットを見せた。
「山口静香からですか?」
田中が手に取った。
「今回は匿名からです」
「なんの演目や?」
「『鵺』ですね……」
田中が大倉に言った。
一連の様子を信濃は離れて見ていた。
「なんや信濃、静かやんけ?」
大倉が後ろを振り返って聞いた。
「そうですか?」
「おまえ、何考えとるんや?」
「――一級建築士の北川さんのことです」
「ただの役立たずやろ」
「TOEICで990点満点を取っても、英語が話せない人っていますよね」
「なんやそれ」
「それと同じように、一級建築士の資格も、建築の知識や理論を理解していることを示すだけで、優れた設計力や現場での判断力まで保証するものではないと思ったんです。――TOEIC満点でも、会話力は別に鍛えなきゃいけないのと一緒です。やっぱり資格だけじゃなくて、実際の経験がものを言うんでしょうね」
信濃はにっこりと微笑んだ。
「はぁ?」
「北川さんは薫さんと比べて、雲泥の差がありましたね」
「……薫の話はするな。あいつがおらんでも俺らはこの事件解決できるんや」
大倉は目を伏せ、胸に寂しさを抱えながらも覚悟を込めて言い切った。
「そうです」
田中も頷いた。
「お二人は『鵺』を観に行くんですか?」
信濃が尋ねた。
「当たり前や」
「はい、行きます」
「鵺は頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という異形の存在です。不思議なことに、能の中での鵺はただの化け物ではなく『醜い姿のゆえに退治され、苦しみながらも祈りを求める魂』として描かれます。――怖い生き物というより『理解されなかったもの』や『排除されたもの』の象徴なんですね」
「信濃、何が言いたいんや」
「能の世界では、鬼や怨霊は本質的に苦しむ魂です。恐れや怒りの姿で現れても、それは『助けてほしい』という心の叫びです。――実際『黒塚』を観た時、老女が薪を取りに家を出た後、一瞬立ち止まるんです。本当は祐慶たちを襲いたくない――誰かに自分を止めてほしい……そんな迷いがあるのかも知れません。能の視点では、恐ろしさは『外の姿』であり、悲しみや優しさは『内なる心』なんです」
「はぁ?」
「大倉さん、このチケットを送った犯人は私たちにケンカを売っていますね。許せないです。――早く山口静香さんを見つけないと! 彼女は助けを求めています!」
信濃は張り切って言ったが、三人はきょとんとしていた。
「信濃さんは『鵺』を観に行きますか?」
「チケットは二枚しかありませんから今回はご遠慮します。――田中さんは大倉さんと楽しんできてください」
信濃はとびきりの作り笑顔で微笑んだ。




