船弁慶 5
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薫は集中治療室で意識を失ったまま横たわっていた。
廊下のガラス越しに、薫を不安げに見守る妻・麻希の姿があった。
久下が大倉と田中を連れて現れると、麻希は大倉を睨みつけた。
「麻希ちゃん」
大倉は声をかけたが、麻希は突き放すように言った。
「帰れ」
麻希の言葉に大倉は足元が重くなるような感覚に襲われ、立ちすくんだ。
久下と田中は黙ったまま後ろに控えていた。
田中が麻希の顔を覗くと、数か月前とは別人のようだった。
「うちの人、大倉さんに協力したせいで命を狙われかけたんやで! あんたのせいや!」
麻希の声は震えていた。今にも大倉に飛びかかりそうな様子に、久下は慌てて二人の間に割って入った。
大倉は深く息をつき、頭を深々と下げた。
「申し訳ない……」
「結局、警察はなんもできへんな! うちん時も薫さんが助けにけーへんかったら、うちは死んでたんやで! ほんま警察は無能やな!」
大倉は麻希を直視できず、ただ俯くことしかできなかった。
アキが慌ただしく駆けつけた。
「麻希ちゃん!」
「アキちゃん!」
麻希はアキにすがりつき、肩を震わせて咽び泣いた。
「薫さんがおらんようなったら、うち生きていかれへん……」
「薫のおっちゃんが死ぬわけないやろ!」
アキは麻希の背中を優しくさすりながら、震える肩を抱き寄せた。
田中はガラス越しに眠る薫を見つめたまま焦りと不安を隠せずにいた。
「田中、行くで……」
大倉の声はかすれ、震えていた。
「はい……」
二人は病室を出て出口へ向かおうとしたが、久下が呼び止めた。
「大倉、犯人のカメラ、見たいんやろ? 大阪府警に案内するから少し待っとき」
「ありがとな、久下……」
田中は弱々しく答える大倉の横顔をじっと見つめた。
大阪府警で、田中と大倉は薫を刺した犯人を追跡する防犯カメラ映像を確認した。人混みに紛れた巧妙な犯行で、逃げ足の速さも相まって追跡は難航していた。
映像から分かったのは、犯人が百六十センチ~百七十センチの小太りだということだった。
バッグを受け取ったホームレスによれば、犯人は自分より足のサイズが大きかったという。久下は足のサイズが中敷きやパッドで大きく見せることもできるとして、女性が犯人である可能性も指摘した。
大倉は薫を襲った犯人が山口静香か葵ではないかと考えた。田中に内緒で成田に確認させたところ、葵はその時間、市民病院にいたと分かり、ようやく安堵した。
夕方、大倉と田中は東京へ戻ろうとしたが、久下は自宅に泊まっていくよう勧めてくれた。
「明日、朝一で坂本さんの病院に行ってから東京に帰ったらええやん」
久下の優しさに、大倉は心から感謝した。
久下には高校二年生の息子・健吾がいる。健吾は大倉の息子と同級生だった。
「智也のおっちゃん、久しぶりやんな」
健吾は大倉と田中を温かく迎えてくれた。
「田中さん、女の人なのに刑事やなんてカッコええな~」
久下の妻・真理子(43)も嬉しそうに笑った。
夕食後、健吾は大倉を自分の部屋へ呼び、スマートフォンを差し出した。
「おっちゃん、これ」
大倉が画面を見ると、テレビ電話が繋がっていた。
そこに映っていたのは三年ぶりに見る智也の顔だった。
「お父さん……」
大きく成長した息子を見てハッとした。
「……智也、大きなったな」
「当たり前やん。もう高二やで」
「せやな……」
大倉は嬉しさを感じながらも、何を話していいのか分からなかった。
「お父さん、東京ってどうなん?」
「東京か? 人がいっぱいや」
「大阪よりも?」
「せやな……ほんまにいっぱいで、時々自分がどこにおるんか分からんくなるわ」
「なんやそれ」
智也は笑った。
「――学校、楽しいか?」
大倉は三年ぶりに智也と話すことができたが、嬉しさと不安が入り混じり、うまく言葉がまとまらなかった。結局、当たり障りのない質問しかできない自分に情けなくなりながらも、薫が死ぬかもしれないという不安の中で、久しぶりに聞く息子の声だけが唯一の救いに感じた。
「普通や」
「そうか……」
ぎこちない沈黙が続いた。それでもスマートフォンの画面に映る息子の姿を見て、言葉がなくても心が温かくなるのを感じていた。
離婚後、大倉は東京に逃げるように移り住んだ。仕事に没頭することで智也に会えない寂しさや、元妻の再婚を気にして息子への連絡を控えていた罪悪感を紛らわせてきた。
親友を危険に晒してしまったことで、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。初めて自分の弱さを痛感していた。これまで無理に強がってきたものが砂のように崩れていくのを感じながら、今は情けない姿を息子や久下、田中に見られても構わないと思えるほど気落ちしていた。
「僕……ずっと前にお父さんのこと嫌い言うたけど」
「うん……」
「でもな、僕……お父さんのこと嫌いやないで!」
智也は照れくさそうに笑った。
「うん……分かっとる……」
大倉は声を詰まらせそうになった。
「今度東京行ったら案内してな、お父さん」
智也はそう言って電話を切った。
大倉はスマートフォンを手にしたまま動けずにいた。
隣の部屋から久下の声が聞こえてきた。
「今、病院から連絡があって、坂本さんが意識を取り戻したって! よかったな、大倉!」
その言葉を聞いた瞬間、大倉は「おおきに……」と言って身体を震わせながら涙をこぼした。
隣の部屋からその様子を見ていた田中は、初めて弱さを見せた大倉を複雑な表情で見つめていた。




