↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第六章
PR
32/60

船弁慶 1

1


「奥様はいらっしゃいません」

 執事の長山が大倉と田中に言った。

「中にいてるんやろ。もう逃げられへんで」

 大倉がギャアギャア言うと、長山は執事らしからぬ困った顔を見せた。

「……本当にいないみたいですね」

「どこに行ったんや?」

 大倉の問いに長山はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「実は……二週間前からご自宅に戻られておりません」

「高跳びしたんか?」

「二週間前に?」

 田中が問い返した。

 二人は山口の会社にも連絡を入れたが、新しい秘書も長山と同様に困惑した様子で「会社にも姿を見せていません」と答えた。

「やっぱり高跳びしとるがな」

「それって自分が犯人だって認めているようですね」

「納得できへん」

 大倉は何かを考え込み、それから誰かに電話をかけた。


 一時間後、警視庁に信濃の姿があった。

「大倉さん、田中さん。またお会いできて光栄です」

 嬉しそうに二人へ声をかけた。

 成田が戻って来たが、信濃の姿を見るなり露骨に目を細めた。

「成田さん、お元気ですか?」

 信濃の問いに、成田は目を伏せて「はい……」と小さく答えた。普段ならこれ以上関わりたくない相手だったが、仕事だと割り切ってぎこちなく頭を下げた。

 すでに大倉は信濃に大阪のリフォーム業者の高倉が殺害された事件と、山口が行方をくらませていることを伝えていた。

「山口は高跳びしたんか?」

「そうですね……」

 信濃は大阪の事件資料に目を落としたまま、田中を一瞥した。

「この大阪の解体事件。仕事が雑ですね。私が犯人だったら――」

「その言い方は必要ないですから……」

 田中は素早く口を挟んだ。

「田中は相変わらず薫が嫌いやな」

「薫さんはお元気ですか?」

 信濃が大倉に尋ねたが、田中は目を細めた。

「ああ、元気や」

「よかったです。――山口静香さんの全体像が変わった気がします。そのせいでイマイチ分かりにくいんですよね」

「山口さんの何が分かりにくいんですか?」

 田中が興味深く尋ねた。

「支配しているように見せて、そうじゃない……そんなふうにも感じます」

「支配しとるわ!」

 大倉が大声を出すと、成田はそれをなだめた。

「この事件は、まず行方不明者の保管場所を見つけることを優先させるべきです」

「それが分からんから信濃を呼んだんや」

「あっ、そうでしたね。――山口さんの家に『覗いてはいけない部屋』があると思います。まず、その部屋を確認してください」

 信濃の言葉にはこれまでのような確信が感じられず、大倉は首を傾げた。


 田中と大倉は鑑識の新庄とともに山口邸を訪れた。捜査令状は出ておらず、今回の訪問はイチかバチかの賭けだった。

 執事の長山は迷いながらも「奥様の行方が分かるなら」と判断し、三人を渋々邸内に招き入れた。但し、もてなしは一切ない。

「長山さん、ここに『秘密の部屋』みたいなんはありますか?」

 大倉は唐突に聞いた。

「『秘密の部屋?』ですか……」

 長山は足を止め、考え込むようにしてから答えた。

「奥様の寝室に『入ってはいけない部屋』はございます」

「そこや!」

 大倉が叫ぶと同時に、田中が「どこですか!」と身を乗り出した。


 その部屋は山口の豪華な寝室の一角にあった。

 真ん中には天蓋付きのヨーロッパ調のベッドが置かれ、四本の柱から垂れたレースのカーテンには繊細な刺繍が施されていた。中世の貴婦人の寝室を思わせる幻想的な雰囲気だった。

 長山が鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開けた瞬間、大倉は中から遺体がゴロゴロと転がり出てくるのではないかと身構えたが、目の前に広がったのは山口の趣味が隅々まで詰め込まれた――美術館のような空間だった。

 壁には色彩の鮮烈な抽象画が並び、照明の角度さえ緻密に計算されていた。一角のガラスケースには古びた楽譜とヴァイオリンが収められていた。

 部屋の奥には黒光りするグランドピアノが置かれ、譜面台には開きかけの楽譜が載っていた。椅子はわずかに傾き、誰かが先ほどまでそこにいたような気配を残していた。

 さらに奥にはトルソーに着せられたドレスが飾られていた。マリー・アントワネットの肖像画から抜け出してきたかのような時代を感じさせるドレスだった。

 まさに『誰にも見せたくない部屋』だった。

「美術館みたいですね」

 新庄が感心したように呟いた。

「遺体はないんか……」

 大倉が残念そうに言った。

「奥様の趣味部屋です。時折この部屋にこもって、ご自分の世界に没頭しておられました」

 長山が説明した。

 遺体こそなかったがあまりにも現実離れした品々に、三人はしばらく部屋を出るタイミングを見失っていた。

 田中は中世ヨーロッパ風のキャビネットの上に飾られた写真に目を留めた。鏡板を背にした真島能楽堂の舞台で、山口が中央に立ち、両脇に慶之助と葵が並んで写っていた。山口は満面の笑みを浮かべているが、左右の二人はまるで別の世界にいるかのような表情をしていた。

 田中は無意識のうちに写真を手に取り、葵の顔にそっと人差し指を置いた。

「田中、行くで」

 大倉の声に、田中はハッとして写真を伏せた。


 長山に連れられて三人は山口邸を隅々まで見て回ったが、遺体が隠されていそうな場所はどこにもなかった。

「ありませんね……」

 田中は先に玄関へ向かおうとした。

「まだや」

 大倉の言葉に田中は足を止めた。

「山口の能舞台、忘れたらあかんで。田中、おまえ感動しとったやろ」

 田中は声を出さずに大きく頷いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。