俊寛 6
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人間国宝の真島慶介は検査入院のため都内の市民病院に入院していた。葵は身の回りのお世話のために、毎日病院に通っていた。
田中と大倉が病室に顔を出した時、葵の姿はなかった。慶介は二人を温かく迎えてくれたが、言葉に嫌味がなく、心からの歓迎が感じられた。
「葵は本当にいい子なんです。――慶之助と同じくらい才能があるのに、腹違いだからと冷たくあしらわれて、かわいそうな子だ」
田中は葵が真島家を離れたくないのは、慶介がいるからかもしれないと思った。
「葵さんはどこにいらっしゃいますか?」
田中が尋ねた。
「この病院の屋上が気に入ったようだ」
慶介は微笑みながら答えた。
二人が屋上に到着すると、葵は『胡蝶』を舞っていた。動きは軽やかで時間が止まったかのようだった。しなやかな腕の動きと流れるような足の運びは、周囲の空気さえも変えるような異次元の存在感を放っていた。
田中は葵の美しさに息を呑んだ。能楽に興味のない大倉でさえ視線が釘付けになり、足を止めて見入っていた。
葵は二人の気配に気づき、舞いを止めて頭を下げた。その顔にはもう冷たさがなかった。
「あっ、葵さん、こんにちは」
田中は動揺しながら挨拶をした。
「こんにちは。お二人でいったいどうされたのですか?」
「葵に謝りに来たんや」
大倉は少し荒っぽく言いながら、田中と葵に近づいた。
「私に?」
「はい……。今までの私達の無礼をお詫びに来ました。申し訳ございませんでした」
二人は深く頭を下げた。
葵はきょとんとした表情を浮かべた。
「まあええねん。――元気しとったか?」
「はい……。大倉さんはお元気でしたか?」
葵の優しさに大倉は思わずニヤけた。
「真島家は葵と国宝だけがマシやな……」
「失礼ですよ、大倉さん」
「分かっとるがな」
「葵さん、ケガはもう大丈夫ですか?」
「はい、もう痛みはありません」
「その……暴力とかは……大丈夫ですか?」
「はい……。田中さんと大倉さんのお陰です」
「そうですか! よかったです!」
大倉は疑いながらも「しんどかったらあの家出たらええんやで」と言った。
「心配してくださりありがとうございます。でも……私は大丈夫です」
葵は微笑みながら二人に答えた。
田中は今度こそ子猫を救えたかもしれないと感じた。
一か月ほど、田中と大倉は青少年たちを追うことができず、他の殺人事件の解決に没頭していた。とはいえ、二人は行方不明者を忘れたわけではなく、手がかりを求めて捜査は続けていた。
だが、事件に関する重要な情報が突然、大倉のもとに舞い込んできた。
大阪府警の久下から届いたメールには、大阪にある山口のホテル、303号室と304号室が映った動画が添付されていた。その部屋は薫が再現した部屋だった。
動画を撮影した人物、高倉(35)はすでに殺害されていた。
事の発端は、あるマンションの住民がトイレの詰まりに気づいたことだった。便器を確認したところ切断された指の末節が見つかり、住民は慌てて警察に通報した。調べた結果、上の階に住む元暴力団員・楠田(40)のトイレで処理されていた遺体の一部だと判明した。楠田は何者かに五百万円で高倉の殺害を依頼され、遺体を自宅で解体して処理していた。
マンションのトイレの配管は上下で繋がっており、便や水が詰まると下のトイレから水が溢れることがある。そのため、下の階の住民が異変に気づいた。
当初、逮捕された楠田は警察で被害者の名前を黙秘していたが、切断された指の指紋から逮捕歴がある高倉が特定された。
高倉はリフォーム業者で、大阪の山口のホテル、303号室と304号室の壁を工事する予定だった。ホテルの支配人・飯田(50)から動画撮影を禁じる契約書にサインしたにもかかわらず、カラクリ箱に興味を持ち、好奇心から動画を撮影した。アルバイトの佐々木(25)を箱の中に閉じ込めた時に304号室の凸凹ドアが上にスライドして開き、ホテルに何か秘密があるのではないかと疑い始めた。
佐々木の体重は七十キロだった。薫の予想通りその重さで六十秒間箱に閉じ込められたためドアがスライドして開いた。
動画を基に高倉は飯田を脅して金を手に入れたが、執拗に金を要求したため楠田に殺害された。
高倉のスマートフォンとパソコンは処分されたはずだったが、万が一に備え恋人の早苗(30)に動画を送っていた。
早苗は佐々木と逃げていたが、高倉の遺体が発見されると観念して警察に助けを求めた。
五百万円で高倉の始末を依頼したのは飯田だった。
久下が飯田を逮捕して事情聴取にあたったが、飯田は「高倉に脅されたのが気に入らなかっただけだ」と語り、山口の関与をほのめかされても終始否定した。
高倉の動画に映っていた隠しドアについても「外国人観光客向けのギミックで忍者寺を意識した。反応が薄かったので撤去を業者に依頼しただけだ」と語った。
久下が大倉から送られてきた薫の再現動画を見せると飯田は一瞬身を乗り出して目を見開いたが、実際のホテルの映像でないと気づいた途端「黙秘します」と告げ、それ以上は何も語ろうとしなかった。
警視庁で、大倉は久下から受けた報告を電話越しに薫へ伝えていた。
「俺のトリック、やっぱりおうてたんやな」
薫は満足そうだった。
スーツケースが収められていた壁の空洞には、楔形文字の装飾が施されていた。久下から送られた高倉の動画を確認した薫は、文字を目にした瞬間、仕掛けの『間』が六十秒だと気づいた。
楔形文字は紀元前3100年頃、シュメール人が使い始めた文字で、数を六十進法で扱っていた。建築家たちは無意識のうちにその知恵を受け継いでいる。一時間を六十分に分け、一分を六十秒に刻む数の体系――太古の楔形文字から生まれたものだ。
円形劇場の座席、壮麗なドームの曲線、光と影の精緻な配置。背後には気づかないうちに六十進法の律動が息づいている。時間も空間も数字の精密なリズムに導かれ、建築家の手によって形を与えられる。数千年前の文明の残響は、今日の都市や美術館の光の中にまで届いている。
仕掛けの「待ち時間」が六十秒に設定されているのもシュメール文明の六十進法を意識した結果だ――薫はそう結論づけた。
「薫のお陰で助かったわ。おおきに」
田中は二人のやり取りを聞きながら、薫に苛立った。
「これからどう動くつもりなんですか?」
満足そうに電話を切った大倉に、田中が尋ねた。
「山口が関与してないか調べて、事情聴取するんちゃうか」
「関与していたとしても、山口さんが直接指示した証拠はまだ出ていません。――あまり強く出ると、弁護士を通じてまた脅してくる可能性もありますよ」
「弁護士なんか怖ないわ。――ほんま、あいつのせいでシャネル大嫌いになったわ!」
大倉は山口の圧倒的な態度を思い出し、怒りを露わにした。
「……大倉さん、シャネルなんて一つも持ってないじゃないですか」
田中の意地悪な言い方に、大倉は「黙っとけ!」と子供みたいに言い返した。
「山口静香を任意で引っ張れます」
成田が現れて二人に言った。
「任意やったら断るやろ」
「大倉さん、あの山口さんですよ。断らずに警視庁まで来るでしょう。それが終わったら弁護士を使って脅してくるでしょうけど……」
田中は心配そうに言った。
「ほな、迎えに行ったろか」
大倉はニヤリと笑った。
そんな大倉を見て、田中は深いため息をついた。




