俊寛 3
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「ギプスはもう外されたのですか?」
田中が心配そうに葵に尋ねた。
田中と大倉は山口に招かれ、『黒塚』を観るため真島能楽堂を訪れていた。開演までまだ時間があるので、慶之助が二人を裏方へと案内してくれた。
山口邸の晩餐会から、慶之助は別人のように親切になった。その変わりようがかえって不気味で、あの冷ややかさはなくなり過剰なほど丁寧になっていた。慶之助が見せているのは本当に「表の顔」なのだろうか――。田中は疑念を胸に、じっと横顔を見つめていた。
「田中さん、ごゆっくりどうぞ」
視線に気づいたのか、慶之助は作り物めいた笑みを浮かべた。
田中は正座し、大倉はあぐらをかいて、葵の前に腰を下ろした。
「はい。まだ痛みはありますが、ギプスをつけたままでは舞台に出られませんから」
葵は頭を下げて控えめに答えた。
「舞台言うても葵は後見やろ? 座っとるだけやったらギプス外さんでもよかったんちゃうか」
大倉は思いついたままを口にした。
「大倉さん、後見も立派な仕事ですよ! 『橋弁慶』で葵さんが子方の代わりにとっさに牛若丸を務めた時と同じように、後見も舞台に欠かせない重要な役割を担っているんです。――舞台上に身を置きながら、演者の動き、進行、道具の扱い、全てを把握して、必要なら即座に介入できる陰から支える補助役なんですよ。後見が一番凄いんですよ」
田中が大倉に注意を促した。
葵は左手を口元に添えて、プッと吹き出した。
田中は葵の笑顔に息を呑んだ。大倉に悟られないよう平静を装い、視線を落とした。
大倉もその仕草に智也を重ねた。息子と同じ年頃の葵に特別な感情を抱くのを感じながらも、田中に悟られないよう胸の奥に仕舞い込んだ。
「大倉さんは面白い方ですね」
葵の微笑みは慶之助と違って自然なものだった。
「そや、葵に聞かなあかんことあったな」
「はい……なんでしょうか」
葵が大倉の方を見て答えた。
「小泉弘がお前を押してケガさせたんや。なんか恨まれることあったんか?」
「私は自分でバランスを崩して転倒しただけです」
葵は心を閉ざしたように冷たい表情になった。
田中はその表情を見て、肩を落とした。
ほとんど埋まった客席の中に信濃の姿もあった。田中と大倉は正面席で、山口と秘書の春日の真後ろに座っていた。信濃は中正面の隅寄りの席で、二人が丸見えで好都合だった。
着物を纏った山口が田中と大倉に軽く会釈をして席についた。
「香水、またぷんぷんやんか……」
大倉が小声で呟いた。
「シャネルじゃないですね。やっぱりお金持ちは毎回、香水を変えるんですね」
田中も小声で応じた。
客席の照明が落ち、舞台が始まった。鬼女伝説をもとにした『黒塚』は能の代表的な演目の一つで、修行の旅を続ける僧・祐慶たちが、奥州・安達原のあばら家に一夜の宿を求めるところから始まる。
老女の住む家で一行はもてなしを受けるが、留守の間に「奥の部屋は見ないように」と言い残される。不審に思った従者が約束を破って覗くと、そこには無数の人骨が積まれ、老女の正体が鬼女であることが明らかになる。
老女(前シテ)と鬼女(後シテ)を演じるのは慶之助。父の慶典は地謡座に座る。慶介と葵は切戸口から現れ、後見座に腰を下ろし、空気のように気配を消す。
田中は葵の右手を気にしながら動きを目で追った。
三度目の能楽鑑賞となった大倉はさすがにウトウトすることはない。今回の失踪事件が『黒塚』に関係しているなら瞬きもせず注視したいところだ。
祐慶と山伏が老女の家に入った演出が始まると、葵は両手で慎重に枠桛輪を舞台に運んだ。
田中は息を呑み、ギプスを外したばかりの右手が震えないか見守った。
山口の視線も葵に向けられているように感じたが、すぐに慶之助に移った。
離れた場所から信濃は二人の様子を眺めていたが、「なるほどね……」と呟き、素の表情を見せた。その視線は舞台が終わるまで躊躇いなく向けられた。




