俊寛 2
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山口は警察を弄ぶかのように、邸宅の一室へ田中と大倉を案内した。広い部屋の壁一面に並ぶ能面が間接照明に照らされ、生き物のように互いの影を重ね合っていた。
田中にはどの面も角度を変えてこちらを見返しているように思えて、無数の視線に背筋が凍った。
「能面には大きく分けて、神・男・女・狂・鬼の五つの種類がございます。それぞれが異なる役柄と感情を担っています」
山口は笑みを浮かべ、慣れた調子で語り始めた。
「通常、上演で使われる能面は二十~三十種類ですが……この部屋には翁や般若をはじめ、能女、老女、狂女など、代表的な五十種類を揃えておりますの」
「……ゾッとする部屋やなぁ」
大倉が田中の胸の騒つきを代弁した。
「田中さん、大倉さん。まもなく面打師の新田良夫先生が到着なさいますので、ご紹介いたしますね」
山口は部屋から出ていった。
執事の長山が二人をソファへ案内した。
「お茶をお持ちいたします」
長山が退室すると、大倉が鼻をつまんだ。
「……山口の香水、きっついなぁ。身体に匂い付きそうや」
「あれはシャネルのナンバー5ですね」
「田中、おまえ香水に詳しいんか?」
「ナンバー5は、シャネルが最初に世に出した香水です。女性なら一度は憧れる香りですよ」
「香水はよう分からん。匂いきつ過ぎると頭痛なるわ」
長山が戻ってきた。手には薄手のトレーがあり、金彩の縁取りが施されたティーカップとソーサーが並んでいた。
「お待たせいたしました」
二人の前にセットを置いた。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
田中はカップを手に取ると、香りを確かめるように目を閉じて鼻先を近づけた。ベルガモットの香気が広がり、表情が和らいだ。一口だけ口に含むと、カップをソーサーに戻した。
大倉はためらうことなくカップを掴み、勢いよく二口で紅茶を飲み干した。
二人の様子に、長山の眉が動いた。
山口が面打師の新田を連れて戻ってきた。
「お待たせしました。こちらが新田良夫先生です」
新田は落ち着いた紺色の着物に同色の羽織という飾り気のない装いで現れた。華美さはないが、長年の仕事を感じさせる品格を纏っていた。
「はじめまして、新田です」
田中と大倉も挨拶を返した。
新田は京都の伝統的な面打ちの家に生まれ、幼い頃から能面作りを学んできた。祖父の背中を見て育ち、手先の器用さと研ぎ澄まされた感性を身につけた。近年は制作や修復のほか次世代の育成にも力を入れ、国内外でワークショップや講演を行うなど能面文化の普及にも尽力している。山口も生徒の一人だった。
新田の作風は古典技法を忠実に守りながら現代の空気を織り込み、「陰と陽」の調和によって内面の複雑さや表情の息遣いを表現する。
能面はオリジナルを創作するのではなく、伝統的な型を写し取る「写し」が最も重要とされる。能楽全体が「伝承」を重んじる文化であり、面打師は先人の技術や美意識を受け継ぐ役割を担う。室町時代に作られた本面は今も最高峰とされ、技法や表情は「写し」によって現代へ伝えられている。
新田は面を一つ手に取り、田中と大倉に向けて語り始めた。
「能面の表情が変わって見える理由をご存じですか? 光と影、面の角度――少しの違いで、柔らかく見えた表情が怒りや悲しみに変わります。照明や観客の位置によっても印象は大きく変わります。これが面に命を吹き込む『陰翳』の技法です」
田中と大倉は、新田が面の向きを変えるたびに浮かび上がる表情を目で追った。同じ面が角度や光の当たり方で、別の感情を表しているように見えた。
「能は陰と陽の芸術です。光と影、静と動、現と幽――すべてが舞台に息づいています。能面はその象徴です」
新田は微笑んだ。
「能面は魂を宿した仮面です。光と影が交わることで生きているような表情を見せ、見る者の心に深く刻まれるのです」
山口は新田の言葉に応えるように、田中と大倉に視線を向けた。
「陰と陽……」
田中は壁一面の能面に恐怖を覚えたが、今は奥にある深さを理解できた気がした。――気づけば、恐怖はほとんど消えていた。
大倉は能面を見つめながら別の考えに囚われていた。面はどこか山口の顔に似ていた。本来「写し」は伝統を受け継ぐための技法だが、目の前の面は模倣ではなく山口の意志まで写し取ったように思えた。
写しに山口の意志が宿り、面をかけた者を無意識のうちに操っているのだとしたら――。
生きた面が影のように人を動かして罪へ導く。そんな不気味な光景が大倉の脳裏を過った。




