俊寛 1
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「食べましたか?」
「……いいえ、食べられませんでした」
信濃の問いに、田中はうなだれた。
「食べ物を残したのですか?」
「……いいえ、大倉さんが食べてくれました」
「食べ物を粗末にしなくてよかったです」
信濃は安堵したが、田中はしばらく黙って尋ねた。
「人間の肝でも、ですか?」
「私が犯人なら、その肝は命の神髄のように大切です。絶対に他人には食べさせません」
信濃は田中の目をしっかりと見つめた。
「言い方が坂本さんみたいですね」
嫌そうに顔を顰めると、信濃はにっこり微笑んだ。
「薫さんとは似たもの同士ですからね。光栄です」
田中はしばらく黙っていたが、「私はどうしたらいいですか?」と尋ねた。
「何をです?」
信濃が問い返すと、田中は深く息を吐いた。
「残虐なことがどうしても受けつけられないんです。葵さんのケガを見ても気分が落ちてしまって……信濃さんみたいに平気でいられるにはどうしたらいいのか……」
「田中さん、私が平気に見えますか?」
「えっ? 犯人の資料とか、酷い写真をたくさん見てるじゃないですか」
「それでも吐くことはありますよ」
「……本当に?」
「本当です。頭ではただの資料だと分かっていても、身体が勝手に反応するんです。私の中で『脳』と『身体』の気持ちがズレていて――いわゆる『心身の不一致』です」
「……心身の不一致?」
「ええ。怖くないと思っても心臓がドキドキすることってありますよね。それと同じで、心と身体が別の方向に動く。感情が強く揺れた時にズレが起きるんです」
「慣れますか?」
「人によります。でも無理に慣れる必要はありません。警察官は命の危険が伴う現場に立つ以上『頭では理解していても身体が動かない』という経験と向き合うことになります。――そのズレを抱えながら、少しずつ自分の反応を知っていくんです。田中さんのように今まさに危険な現場に身を置いている人は、自然と鍛えられていくものです。心と身体を一致させる力は現場でしか培えないこともあります」
「でも……見ていて、どうしても気分が沈んでしまって……」
「それは心がある証拠です。感じることを無理に押し殺さなくていいんですよ。そのままでいてください。――田中さんはそれでいいと思います」
信濃は微笑んだ。
大倉が捜査一課に戻ると、田中の横にドスンと腰を下ろした。
「どうでした、大倉さん?」
「小泉の遺体やった……」
大倉はため息交じりに答えた。
昨夜、田中と大倉が山口の邸宅で晩餐会に招かれていた時、小泉は遺書を残して高層ビルから飛び降りた。遺書はパソコンで打たれたもので、高橋朔と道端で肩がぶつかって口論となり、衝動的に殺害して東京湾に遺棄したと書かれていた。
「高橋朔は睡眠薬が残っていて、溺死ですよね。おかしな遺書ですね」
田中が言った。
「分かっとるがな。山口が俺らを晩餐会に招待したんはアリバイ作りのためやろな。食事しとる間に飛び降りしとる」
「自殺は『終点』ではなく『犯人の手口の痕跡』になってしまうのに……」
「はぁ?」
「小泉さんってどんな経歴の方ですか?」
信濃が大倉に尋ねた。
「小泉は元暴力団の構成員や」
小泉弘は恐喝、死体損壊、死体遺棄の前科を持っていた。半年前に五年の刑期を終えて社会へ戻ったが、所属していた暴力団は勢力を失っていた。頼れる場所もなく、更生支援センターの支援を受けた後、山口の会社で非正規の運転手として働くことになった。
「遺体損壊で逮捕歴があるなら、きっと丁寧に仕事をしない人だったんですね。私が犯人なら、見つからないように気をつけます」
信濃の言葉に、田中と大倉が目を細めた。
「元暴力団員だから山口さんが雇ったんでしょうね」
「せやけど……なんで小泉は葵を殺そうとしたんや?」
「それは……」
田中はしばらく言葉を探した。
「邪魔だったからでしょう」
信濃が言った。
「そうですね……真島の家でもあんな扱いを受けてますから」
田中は悲しげに言った。同時に、どうやったら葵を守れるかを考えた。
「山口静香からまた能のお誘いが来ました!」
成田が勢いよく入ってきて大倉にチケットを二枚渡した。
「ケンカ売られまくりやな」
大倉が呟いた。
「私のチケットはないんですかね」
信濃の言葉に、成田は彼女を睨んだ。
「私たち、山口静香にうまいように操られていますね……」
田中がぼやくと、大倉も頷いた。
「ほんまやな……」
「シリアルキラーの中でも、人を操る――マインドコントロール型がいちばん質が悪いですからね」
「例えば?」
「チャールズ・マンソンです。強烈なカリスマ性で若者たちを惹きつけ、共同生活を通じて彼らを支配していました。ドラッグを使って信者の精神を弱らせ、歪んだ終末思想や人種戦争の予言を繰り返し説くことで思考をコントロールしたんです。外部との接触を断ち、情報を操作し、信者の世界を狭める。恐怖と愛情を巧みに使い分けることで信者たちは逃げられなくなっていきました。――自己意識を溶かし、絶対的な服従を引き出す。マンソンの命令で凶悪な犯罪に手を染め、多くの犠牲者が出ました」
「マンソンは……自分の手は汚さなかった?」
「ほとんど直接的な暴力はしていません。実行犯は信者たちです。――今回の事件も、山口さんが同じようにマインドコントロールで人を操り、自分の手を汚さずに犯罪を行っているのかもしれません」
信濃の言葉に三人は黙り込んだ。田中は視線をテーブルに落とし、大倉は天井を仰ぎ、成田はメモを指でいじった。山口静香が「操る側」だとしたら――単なる凶悪犯以上に厄介な相手だった。
「このチケット、演目が『黒塚』って『安達原』じゃないですか! これ、絶対にわざとですね!」
信濃は机の上にあるチケットを見て楽しそうに言ったので、三人は一斉に彼女を睨んだ。




