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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第四章
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安達原 6

6


 翌日、捜査一課で、大倉は机の上に並べられた葵の身体のケガの写真を見つめながら、深くため息をついた。

「……何とも言えんな」

「はい……。それでも葵さんはあの家に留まるそうです」

 田中の声には、戸惑いと苛立ちが混じっていた。

「母親がおらんならしゃーないんか……」

 そこへ、元気よく信濃が現れた。

「おはようございます。昨日はお疲れ様でした」

「あっ、信濃さん。おはようございます」

 田中が笑顔で応じたが、視線の先には写真が残っており、信濃の目にも入った。

「そのケガは……何ですか?」

「あっ、これは……」

 田中は写真を集めようとしたが、信濃は一枚手に取って目を凝らした。

「これって……つけられた痕に見えますね」

「どういう意味や?」

 大倉が眉を顰め、問い返した。

「自分で自分を傷つけたって意味ですよ」

 信濃は青痣に隠れた自傷の跡に気づいた。

「そんな訳あるかいな。俺と田中の目の前で、慶之助の母親が葵に蹴り入れたんやで」

「そうですよ!」

 田中も食い気味に同意した。

「お二人とも警察学校で何を学ばれたのですか?」

 青痣に隠れた自傷の跡には触れず、皮肉を込めて言った。一瞬、素の表情を見せたかと思えばすぐ笑顔に戻った。

「常に批判的思考を持っていないとダメですよ。――先入観に流されず『これは本当か?』と自分に問いかけるような姿勢が必要なんです。薫さんも言ってたでしょう。『蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい』って」

「それ薫の言葉ちゃう。日曜学校で習った聖書の言葉や」

 大倉がすかさず関西風のツッコミを入れた。

「《《薫さん》》?」

 田中は露骨に嫌悪感を見せた。

「はい、薫さん、靖代はん。下の名前で呼び合う仲になりました」

 信濃は田中の反応を窺いながら答えた。

「どうしてですか?」

「似た者同士――だからですかね」

「つまり……信濃さんも……坂本さんみたいに心に闇があるんですか?」

 田中は探るように尋ねた。

「私の闇ですか……」

 少し考えて続けた。

「田中さん、薫さんの心の闇は過去の経験から自然に生まれたものです。暴力的な環境で育った体験がもたらした防衛反応としての怒りや恐れ――私の闇は興味本位で後付けされたものです」

「闇の後付け?」

「闇にも色々な種類があります。ただ、私は薫さんの闇が薄れている気がします。犯人像が私とは違ったから……」

「坂本さんが薄れてる?」

「はい、家族のお陰で……薫さんの感情は今、家族を守るために強く反応しています。もし誰かが家族を脅かすことがあれば黙って見過ごすことはないでしょう。薫さんはその『闇』と冷静に向き合い、どう扱うべきかに意識を向けるようになりました」

 大倉は信濃の観察力に驚き、言葉を呑み込んだ。

「――かつては怒りに任せて動いていたかもしれませんが、今は感情の根源を見つめ制御しようとしています。守るべきものがあるからこそ、薫さんは自分を見失わないよう常に気を配っているのです」

 信濃は言い切った。

「そうですか……」

 田中は曖昧に答えた。

 大倉は田中が薫を苦手としているなら、信濃の素の姿にも拒否感を抱くだろうと思い、それ以上口を挟まないことにした。

 信濃もまた、田中にだけは自分の本質を見せないようにしていた。――薫と同様に、田中という存在に強く惹かれ始めていた。

「真島葵を突き飛ばした男、判明しました! 防犯カメラにバッチリ映ってました!」

 勢いよく捜査一課に飛び込んできた成田の声に、田中と大倉が同時に反応した。

「誰ですか!」「誰や!」

「小泉 弘《ひろし》、四十歳。元暴力団の構成員です」

 成田は防犯カメラに映った黒ずくめの男――小泉の写真をパーン! と音を立てて机に叩きつけた。

「真島んとこの運転手か!」

「東京湾近くの交差点に設置された交通監視カメラに映っていた映像です。運転する小泉の姿がはっきり写っています」

 続けて、交通監視カメラが捉えた白いバンの映像も机に置いた。

「田中、すぐに真島んとこに向かうぞ!」

「はい!」

 大倉と田中は勢いよく出て行った。

 成田は信濃と目が合ったが、彼女の微笑みには目もくれず、そっけなく視線を逸らした。


 田中と大倉が真島家に近づくと、梓が立ちはだかり、二人を睨みつけた。

「小泉はうちの運転手じゃありません。慶之助を警察に連れて行っただけです」

「小泉さんに会うにはどうしたらいいですか?」

 田中も負けじと睨み返した。

「知りません。どうぞお引き取りください」

 梓は勝手口の扉をきつく閉めた。

「大倉さん、どうしますか?」

「真島能楽堂に行って話を聞くしかないな……」

「小泉が葵さんを突き飛ばしてケガをさせたって伝えても、あの母親はまるで動じていませんでしたよ」

「葵は愛人の子供やからなあ」

「葵さんの母親は愛人なんかじゃありません! 慶典が無理やり――」

「分かっとるがな。あの母親にとっては旦那が他の女とどんなことしとっても、葵の存在そのもんが許されへんのやろな」

「そうですね……」

 田中はため息をついた。


 そのまま田中と大倉は真島能楽堂へ向かうと、慶之助が二人を出迎えた。警視庁に来た時とは打って変わって、驚くほど穏やかな態度だった。

「葵を突き飛ばした犯人が小泉さんだったなんて……」

 客間に通された田中と大倉の前で、慶之助は芝居がかった口調で驚いてみせた。

「その小泉さんですが、慶之助さんの運転手やなかったんですね」

 大倉は日曜学校で習った御言葉を意識することなく『蛇のような目』で相手を見据えた。

「はい。小泉さんは山口様が時折派遣してくださる運転手です。私どもに運転手を雇う余裕はございませんので、山口様には大変感謝しております」

「では、山口さんのところへ行けば話が早いですね」

 田中が立ち上がった。

「そのことですが……今夜、山口様のご自宅で晩餐会がございます。よろしければ、大倉さんも田中さんもご一緒にいかがですか?」

 慶之助はあたかも今思いついたかのように言ったが――その口調はどこか用意されたセリフのようだった。

 田中は間を置いてから何食わぬ顔で席に戻り「喜んで」と返した。

 大倉は田中の成長ぶりに気づきながらも、顔を伏せてフッと笑った。



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