安達原 5
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急いで東京に戻った田中は、その足で葵が搬送された総合病院へ向かった。時刻は十九時を回っており、受付から「面会時間は終了しております」と告げられたが、躊躇いながらも警察手帳を示して病棟内へ足を踏み入れた。大倉のような職権の使い方はできないと思っていたが、気づけば同じことをしてしまい、罪悪感を覚えた。
葵は個室にいた。右手はギプスで固定され、上半身を起こしてベッドにもたれ、窓際の薄暗い景色をじっと見つめていた。
「失礼します」
病室のドアをスライドさせると、葵が振り向いた。その目は冷たく澄んでいて、田中は言いようのない居心地の悪さを覚えた。
「葵さん、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
葵は作り物めいた笑みを浮かべた。
田中は成田から事故の詳細を聞いていた。バイクの運転手は突然飛び出してきた葵を避けきれず、事故はほとんど不可抗力だった。葵も自分の不注意を認めていた。だが、救急車を呼んだ通行人は、葵を突き飛ばす人物を目撃していた。
「突き飛ばした人に心当たりはありますか?」
「……私がバランスを崩して倒れただけです。大したケガではありませんので、明日には退院可能です」
目を逸らして答える葵を見て、田中は犯人を知っていても黙っているのだろうと思った。これ以上の追及はしなかったが、身体に残る虐待の痕だけはどうしても許せなかった。
「ケガの写真を撮らせてもらっていいですか?」
「はい……」
葵は骨折した右手を見せた。
「身体のケガも見せてもらっていいですか?」
葵はしばらく黙ったまま視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「真島家の人間には黙っていてくれるなら……」
「あの家を出ようと考えたことはないんですか?」
余計なことだと分かっていたが、つい口に出してしまった。
「私には……あの家しかありません。真島家を追い出されたら、ただの抜け殻です……」
「でも――」
「私は……能が好きなんです。私から能が奪われたら……それこそ何も残らない……」
田中は言葉に詰まり、何も言えなくなった。
「お願いです。身体の写真は撮っても構いませんが、真島の人間には何も言わないでくれますか?」
葵は田中を見つめて言った。
葵の瞳を見て、田中はなぜこんなに惹かれるのか考えた。
高校時代の記憶が甦った。ある朝、公園で出会った一匹の黒い子猫。ガリガリにやせ細り、助けを求めて田中にすり寄ってきた。学校を遅刻してはいけない思いに負けて無視をしたが、夕方、学校帰りに溝に横たわる子猫の亡骸を見つけた。
胸が張り裂ける思いだった。助けられたはずの命を自分の手で見殺しにしてしまったのだ。
泣きながら子猫を抱いて家に帰り、庭に穴を掘っていた時、母が声をかけてきた。
「結衣ちゃん、何してるの?」
「子猫が死んじゃった」
母は一緒に泣いてくれて、「次は助けてあげようね……」と言った。
母の言葉はそれ以来、ずっと心に残っていた。
そして今、目の前の葵があの日の子猫と重なって見えた。
――今度こそ自分の手で助けたい……。
「約束します。真島家の人間には絶対に話しません。どうか……ケガを見せてもらえませんか?」
葵はしばらく黙ったまま、視線を落としていた。
「葵さん……」
「……分かりました」
葵は顔を伏せたまま、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
華奢な身体に浮かび上がった無数の青痣を目にした瞬間、田中は息を呑んだ。視線を逸らそうとしたが、痛々しい姿から目を離すことができなかった。
震える指先でスマートフォンを握り、慎重に何枚も写真を撮った。シャッターを切るたびに胸の奥が重くなった。――それでも、今この瞬間だけは葵を絶対に独りにしない。
「……ご協力、ありがとうございました」
口から出たのは警察官としての決まり文句だったが、田中は子猫の分まで葵を守ろうと心に誓った。




