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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第三章
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18/60

葵上 5

5


 捜査一課の応接室に、大倉の姿があった。

 田中がドアを開け、慶之助を連れて入ると、大倉はすぐに席を立った。

「お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます」

 いつもの関西弁を出さぬよう必死に気をつけながら、慶之助に頭を下げた。

「父に頼まれましたので」

 慶之助は田中に促され、椅子に腰を下ろした。

「昨晩は大変申し訳ございませんでした。足袋も履かず舞台に上がってしまい……大変失礼いたしました」

 大倉の謝罪に慶之助は軽く頷いた。

「私に聞きたいことは、何でしょうか?」

「はい……少々複雑な話でして――」

 大倉は説明を始めた。慶之助や葵に雰囲気の似た青年たちが、この三年間で三十人以上も行方不明になっていること。彼らが能楽に興味を持っていたこと。いまだ行方が分からないことを丁寧に伝えた。

「事件が私に何の関係があるのですか?」

「警察の見立てでは、次に狙われるのは慶之助さんか葵さんやと思てます」

 大倉はいつもの関西弁に戻っていた。

 慶之助と葵が狙われる――そんな事実はなかった。大倉は信濃から「慶之助の不信感を解くことが解決の第一歩」と言われていたため、あえてそう伝えたのだ。

「私と葵が狙われる?」

 慶之助の姿は舞台の一場面を切り取ったように美しかった。

 田中は思わず見惚れたが、すぐに我に返った。

「はい。これ以上行方不明者を増やさないためにも、よろしければ真島さんのところに警察を置かせていただけませんか?」

「結構です」

 大倉の言葉を突き放し、さっと席を立った。

「どうぞお座りください。まだお茶もお出ししてません」

「私は稽古がありますので、失礼します」

 慶之助は出て行った。

「大倉さん、早く慶之助さんを駐車場まで見送ってください!」

「何でや? 田中が行ったらええやろ」

「いいから、早く!」

 田中は大倉の背中を軽く押し、廊下へ促した。


 大倉は慶之助と共に駐車場まで向かった。二人の姿を確認した運転手は車から降り、後部座席のドアを開けた。

「おかえりなさいませ」

「はい」

 慶之助は華麗に車に乗り込んだ。

 大倉は運転手の顔をじっと見つめていた。アキを尾行していた男が目の前にいることに、驚きを隠せない様子だった。

「私の顔に何かついていますか?」

 運転手が怪訝そうに尋ねた。

「私は大倉と言います。運転手さんのお名前は?」

「――小泉《こいずみ》です」

「小泉さん、真島家の運転手は長いんですか?」

「あなたにお答えする義務はありませんので……」

 その声には明らかな警戒心があった。

「いやいや、すみません。実は、慶之助さんと葵さんのことが少し気がかりでして……」

 名刺を取り出し、「ご迷惑でなければで構いません。何かお気づきのことがあればご一報いただければと」と控えめに言った。

「――分かりました」

 小泉は名刺を受け取り、運転席に戻った。

 大倉はナンバープレートを一瞥した――新潟でアキを尾行していた時の車と同じ番号だった。発進する車に向かって、丁寧に頭を下げた。


 東京湾で発見された高橋朔の遺体を運んだ車を小泉の車に絞り込み、鑑識の新庄に追跡調査を依頼した。睡眠薬で昏睡状態になった巨体の高橋をあの車で本当に運べるのか――疑問は残る。それでも、新潟でアキを尾行した際の映像データを渡し、小泉が別の車で東京湾付近の防犯カメラに映っていないか併せて確認してほしいと頼んだ。

 大阪に戻った薫から、ホテルの部屋から松原孝が消えたトリックを暴いたと大倉に連絡があった。ただ、薫の会社でその模型を作ったため、東京へ持っていくのは難しく、来週あたり大阪に来るよう頼まれた。

「来週、成田と薫んとこ行ってくるさかい、田中は留守番しときや」

 大倉は薫が苦手だと言っていた田中を気遣った。

「はい……。ありがとうございます」

 田中は感謝しつつも、薫を怖いと感じる自分が、これから刑事を続けられるのかと情けなく思った。

 どんよりとした空気の中、信濃が元気よく捜査一課に入ってきた。

「お疲れ様です! あれ? 田中さん、元気がないですね。大丈夫ですか?」

 信濃は田中をじっと見つめて言った。

「そんなことないです。信濃さん、お疲れ様です」

 田中は慌てて笑みを浮かべた。

「二人で何の話をされていたんですか?」

「来週、大阪へ行くのを成田さんに代わってもらうって話です」

「田中さんは大阪に行かないんですか?」

「はい……」

 田中は苦笑した。

 成田が現れ、信濃に対して嫌悪感を示した。

「成田、来週一緒に薫の会社に行くぞ」

 大倉が声をかけると、信濃が二人の間に割って入った。

「それってもしかして、一級建築士の坂本薫さんのところですか?」

「なんや、信濃、薫を知っとるんか」

「はい! プロファイラーのほとんどは、坂本さんの洞察力に心酔しています!」

「坂本さんって、犯罪プロファイラーなんですか?」

 成田が大倉に尋ねた。

「ちゃうわ。ただの一級建築士や」

「信濃さんはどうして坂本さんを知っているんですか?」

 田中は興味ありげに尋ねた。

「八年前に起きた『飽飫《ほうよ》溺死殺人事件』の犯人像をプロファイリングしたのが、坂本さんなんですよ」

 信濃が笑顔で言うと、大倉はやれやれといった表情になった。


 事件は兵庫県飽飫市で起きた。

 最初の被害者は三十代の男性で、琵琶湖で溺死体となって発見された。当初、警察は事件性を疑わず自死と判断し、地元ニュースで小さく報じられただけだった。誰も深く気に留めなかった。

 半年後、琵琶湖近くの草むらで見つかった遺体も三十代の男性だった。解剖の結果、溺死とされたが、発見時の豪雨により死因に疑問が生じ、さらに詳しい解剖が行われた。被害者の肺と気管に大量の水が入り込み、意識がある状態で水を吸い込み、苦しみながら窒息死したことが判明した。

 遺体には切り傷や打撲などの外傷はなかったが、両手足には拘束された痕があり、抵抗した形跡も認められた。

 ただの事故ではない――そこには犯人の深い憎悪と悲しみがあった。

 三人目の遺体も三十代の男性だった。発見は二か月後だった。犯行の間隔は短くなり、警察は同一犯による計画的な犯行と断定した。死因は同じく溺死。もがきながら水を吸い込ませる水責め――ウォーターボーディングによるものだった。

 事件が全国ニュースで報じられる頃、薫から大倉に電話がかかってきた。

「犯人は家族や。――子供のために動いとる」

 大倉は薫の言葉を信じ、兵庫県警に連絡を入れた。

 兵庫県警は薫が以前和歌山の女性監禁事件を解決したことを知っていたため、大倉の話を真剣に受け止めた。

 薫のプロファイリングによれば、犯人の子供は学校のプール授業で溺れ、低酸素脳症を患った可能性があるという。大倉は過去五年以内の兵庫県のプール事故の記録を調べ、後遺症が残った児童と両親、事故当時三十代だった教師を特定した。

 児童は後遺症に苦しみ、両親は事故で助けが遅れた教師を恨んでいた。愛する息子を守ろうと葛藤しながらも、抑えきれない怒りに突き動かされ、最終的には教師を連れ去り、息子にウォーターボーディングをさせる計画を立てていた。だが、警察の介入で、悲劇は辛うじて回避された。


「坂本さんって、大倉さんのお友達だったんですね。私も来週一緒に坂本さんのところに行ってもいいですか?」

 信濃が大倉に頼むと、成田は不可解な面持ちで彼女を見た。

「あかん、仕事で行くんや」

「でも私も今、捜査協力しているので、仕事で行くんですよ」

「薫が嫌がるからあかん」

「分からないじゃないですか! 大倉さん、お願いです。行きたいです!」

「あかん、経費出ーへん!」

「自腹でも行きたいです! お願いします!」

「信濃、おまえ男二人と新幹線乗ったら、彼氏嫌がるんちゃうか」

「彼氏いません」

 信濃の言葉に、成田は内心で「やっぱり……」と納得した。

「お願いします、大倉さん!」

 しつこい信濃に、大倉と成田はさらに嫌な顔をした。





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