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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第三章
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葵上 4

4


 大倉はトイレに行かず、真島家の中を探索していた。薫と信濃の言葉「犯人は遺体を全て大切に保管している」が頭から離れず、この広い敷地のどこかに隠す場所があると思えてならなかった。

 スマートフォンの明かりを頼りに屋敷の奥へ進むと能舞台に辿り着いた。

「なんやここ……」

 舞台に足を踏み入れると檜の床が軋んだ。

 その瞬間――パッと照明が点いた。

「そこで何をしているんですか!」

 凛とした声が空気を裂いた。

 照明に浮かび上がったのは着物姿の真島梓《あずさ》(50)と息子の慶之助だった。

 大倉は足袋も履かずに舞台へ上がったまま、まるで泥棒が警官に見つかったような気まずい顔で二人を見返した。

 梓の顔は照明に照らされ、怒りとも怨念ともつかぬ表情が浮かんでいた。歪んだ口元からは感情が読み取れず、威厳と妖しい気配だけが伝わっていた。

 騒ぎを聞きつけ、葵と田中が駆けつけた。

「葵! 他人を無断で敷地内に入れるとは何事ですか!」

「申し訳ございません!」

 葵は田中の横で正座になり、深々と頭を下げた。

「私たちが悪いんです!」

 田中はとっさに声を上げたが、梓は聞こえなかったかのように無視して怒りのまま歩み寄ると、足を振り上げて力任せに葵の左肩を蹴りつけた。

「何しとんのや! おばはん!」

 大倉が思わず叫んだ。

 葵は衝撃でよろめきかけたが、すぐに体勢を立て直して頭を下げた。

「申し訳ございません……」 

 田中は捲れた着物の袖から覗く葵の腕に目を奪われた。色濃く浮かぶ青痣に怒りが込み上げた。

「暴行罪で逮捕しますよ!」 

 田中は二人の間に割って入り、両手で葵を庇った。

「――あなたは?」

 梓は田中を真っすぐ睨んだ。

「捜査一課の田中と申します」

「同じく大倉や」

 大倉も梓に歩み寄り、低く唸るように睨み返した。

「田中さん、大倉さん、止めてください。私が悪いんです」

 葵は頭を上げて言った。

 田中は名前を呼ばれて胸の奥に温かいものを感じたが、すぐ表情を戻して梓を睨みつけた。

「何事ですか?」

 場の空気が一変した。現れたのは梓の夫であり、葵の父親でもある慶典だった。

「あなた……」

 梓は般若《はんにゃ》の形相から小面《こおもて》のような儚げで弱々しい女の顔へと変わり、色気を帯びながら慶典に近寄った。

「葵が留守の間に警察を入れたんです」

「慶之助さんに話があって来たんやけど、おらんって断られたんや。せやけど雨降っとったから、無理やり中に入らせてもろたんや。――葵さんは何も悪ない」

 大倉が慶典に向かって言ったが、葵は頭を下げたままだった。

「そうですか……。今日はもう遅い時間ですのでお引き取りください。慶之助、明日にでも警察に話をしに行きなさい」

「はい、お父様」

 田中は頭を下げたままの葵を見つめ、深いため息をついた。


 能楽の演目『葵上』は紫式部の『源氏物語』を基に、世阿弥《ぜあみ》が能として改作した作品である。物語の中心となるのは、原因不明の病に苦しむ光源氏の正妻・葵上だ。病の背後には、光源氏の寵愛を失った六条御息所の生霊が関わっているとされる。

 葵上の病を鎮めるため、巫女は梓の弓を用いた「梓の法」を行う。その音に呼び寄せられるように六条御息所の怨霊が現れ葵上をさらに苦しめるが、最後は高僧の祈祷によって調伏され成仏へと導かれる。

 原作『源氏物語』では六条御息所の生霊により葵上は死に至るが、能では葵上が救われ、怨霊も最終的に成仏する。

「光源氏って最低ですね」

 成田がパソコンの画面を見つめながら呟いた。

 プロファイラーの信濃から今回の事件が能楽の演目と関係があるという助言を受け、内容を順に確認していた。

 田中はすでに『葵上』の演目を調べていた。葵と同じ名前の演目であり、大阪で亡くなった仇でもある慶之助の母・梓の名前が登場するため気乗りしない演目だった。

 昨夜、葵の身体にあった青痣を見てショックを受けた。あの家で葵は本当に幸せなのだろうか……。

「田中、慶之助が来たから連れて来てくれ」

 大倉の声に、田中はハッと我に戻った。


 田中が駐車場に慶之助を迎えに行くと、運転席に新潟でアキを尾行していた男がいた。

――あの男、真島家の運転者だったの? やっぱり慶之助が怪しいってこと?

 田中は驚きそうになったが、すぐに表情を戻した。

 運転手は後部座席に座っている着物姿の慶之助のためにドアを開けた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 慶之助は運転手に軽く会釈をし、車を降りた。所作には能楽師らしい余裕と礼儀正しさが漂い、舞台上の演技を思わせるように無駄がなかった。

「お付きの方もいらっしゃいますか?」

 田中は運転手を大倉に見せたくて声をかけた。

「私は車で待機します」

 運転手は冷ややかに答えた。

 田中は慶之助を連れて警視庁の中へ進んだ。能楽の貴公子の登場に、周囲から視線が集まった。

「運転手がいるとは、さすがですね」

「彼が気になりますか?」

 慶之助は足を止めた。

「いいえ」

 田中も足を止め、平静を装った。



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