葵上 3
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田中と大倉は、真島家の門の前に立っていた。
黒漆塗りの木戸は固く閉ざされ、門の両脇には苔むした石灯籠があった。
大倉がインターフォンを押すと、スピーカー越しに「はい……」と声が返ってきた。田中には葵の声だとすぐに分かった。
「警視庁の大倉です。真島慶之助さんにお話があるのですが」
言葉を丁寧に選んでいたが、関西弁のイントネーションまでは隠しきれていなかった。
「今日は皆外出しておりますので、どうぞお引き取りください」
「中で待たせていただけませんか」
「申し訳ございませんが、中に入れることはできません」
インターフォン越しに葵は断った。
「ほんまは家の中にいてるんちゃうんか」
「あっ、雨ですね」
田中は手をかざして夜空を見上げた。
雨はすぐに激しくなって雲が満月を覆った。たちまち豪雨となって雷鳴が響いた。
二人は傘を持っておらず困り果てた。
「この雨やったらさすがにたまらんわ」
大倉が呟いた。
田中は躊躇いながらもインターフォンを押した。
「申し訳ありません。傘を持っておらず……中で少しだけ雨宿りさせていただけませんか?」
何の反応もなかった。
二人が諦めて離れようとした時、勝手口がゆっくりと開き――影の中から葵の端正な姿が浮かび上がった。冷たい眼差しは澄んだ光を放ち、切れ長の眉が表情をいっそう鋭くしていた。その存在感は闇そのものが形をとったようだった。
田中は息を呑んだ。
「どうぞ、お入りください」
葵は二人を招き入れた。
ずぶ濡れの田中と大倉は客間へ案内された。
二人が部屋に足を踏み入れると、ふんわりと甘いお香の香りが漂っていた。
「何やこの匂い?」
大倉が眉を顰めて尋ねた。
「白檀のお香です」
葵が答えたが、大倉は興味がなさそうだった。
二人がスーツのジャケットを脱ぐと、葵は木製のハンガーを差し出した。
「おおきに」
大倉は礼を言いながら、雑に見える手つきとは裏腹に、ジャケットの皺をさっと伸ばして丁寧にハンガーに掛けた。
「お香の匂いスーツに着くな」
「大倉さん、失礼ですよ」
田中が小声で注意した。
葵はすぐにバスタオルを持って戻り、二人に手渡した。
「こちらをお使いください」
「ありがとうございます」
田中は葵に礼を告げると、髪を拭き始めた。
「今、温かい飲み物をお持ちします」
二人に頭を下げて出て行った。
「ほんまに誰もおらんかったな」
「葵さん一人で留守番だなんて、仲間外れみたいですね」
「それが腹違いの宿命か……気の毒やな……」
「そうですね……」
同情しながら呟いた。
雷鳴が轟き、一瞬、部屋の明かりが消えた。雨音もいっそう激しくなっていた。
葵が温かいお茶を持って入ってきた。
「どうぞ」
テーブルの上に二人分のお茶を並べた。
大倉はバスタオルでスラックスを拭きながら、座布団の上にあぐらをかいて座り「おおきに」と言ってお茶をすすった。
田中は座布団の上に正座し、葵に軽く頭を下げてから「いただきます」とお茶を口に運んだ。
「美味しいお茶ですね」
声をかけても、座布団に正座した葵は無表情のままだった。
「トイレ行きたいんやけど、使こてええか?」
大倉が立ち上がった。
「廊下の突き当たり奥にあります」
葵も案内しようと立ち上がったが、大倉が笑って手を振って制した。
「トイレぐらい一人で行けるわ」
「……はい」
大倉が出て行った。
田中は気まずい沈黙に包まれていたが、何か言わずにはいられない衝動に駆られた。
「この間の『橋弁慶』、とってもよかったです」
「ありがとうございます」
葵は表情を変えずに頭を下げた。
雷鳴が轟き、同時に停電が起こった。
「あっ、また停電」
すぐに灯りが戻ると思ったが、闇はなかなか消えなかった。
田中はハンガーに掛けたジャケットの内ポケットから、スマートフォンを取り出そうと立ち上がって左手を伸ばした。
「スマホの明かりをつけますね」
葵がその手を止めた。
――えっ?
触れた葵の手は氷のようで、反射的に手を引いた。雨に濡れた自分たちの身体よりも冷たく、胸の奥に不安が込み上げた。
――まさかこの人は……生きていないのではないか……。
馬鹿げた考えが頭を過り、背筋が凍るような思いに駆られたが、振り払った手の感触がまだ指先に残っていた。触れていたい、でも怖い――胸に緊張が走った。
「すぐに暗闇に慣れます」
葵の声が闇の中に響いた。
「はい……」
隣にいる葵の存在を確かに感じていた。見えないはずなのに、得体の知れぬ圧があった。手に触れた氷のような感触が記憶に焼きつき、安堵と恐怖が交錯して胸の奥に波紋を広げた。
光のない空間に目が慣れてきた。
闇そのものを怖いと思っていたが、今、田中を震わせるのは――この闇の中で葵を「感じる」自分自身の心だった。




